True lover's knot

「ドクターこちらです」
 飛行装置から降りてすぐ、ざあと吹き付けてきた寒風に体を震わせていたドクターは聞き慣れた声を耳にしてきょろりと辺りを見回した。気温差で曇ったフェイスシールドを手で拭うと、イトラの青年が装いは違えどいつもの笑みと共に立っているのが見えてほっと息をつく。
「やあ、クーリエ。迎えに来てくれて助かったよ。正規ルートでイェラグに入るのは初めてだったから」
「ロドスに居るカランド関係者は全員前入りしちゃいましたからね。同行できず申し訳ありませんでした。 シルバーアッシュ様も準備で忙しく「直接迎えに行けなくてすまない」との伝言を預かっております」
「そりゃ領主様は特に忙しいだろうし、謝ることでもないさ」
「とにかく無事に到着されて何よりです。さっそく護衛の引継ぎを……」
 すでにロドスの飛行装置は離陸準備に入っているというのに、本来ドクターの傍に控えているはずだろうオペレーターたちがいないのを見てクーリエは眉を下げた。
「……ドクター、まさか単身でこちらに? 特にシルバーアッシュ様からそういった指定はなかったと思いますが」
「ハハ、まぁほら。どうせイェラグに着くまでの数時間だし。人件費の削減をね」
「心臓に悪いことしないでくださいよ。イェラグ到着前に不慮の事故にでもあってたら、疑われるのはカランド貿易なんですから……」
「ごめんごめん」
 なぜドクターが雪深いイェラグに単身やってきたのかというと、イェラグで行われるとある式典に招待されたからだ。三日間通しで行われるという儀式めいたそれに参加できる国や企業は限られている。ロドスはカランド貿易と業務提携を結んでいるため三大貴族であるシルバーアッシュの来賓として招待を受けたのだ。数日間とはいえ再びロドスを離れ、イェラグへ赴くことにドクターは難色を示したがアーミヤはともかくケルシーから珍しく「GOサイン」が出たので出立を決めた。
 ドクターが持ってきた最低限の手荷物—連絡用の端末とバッテリー類—を引き受けるとクーリエが軽やかな足取りで先導する。いつもとは違う服を着ている彼の背中には独特な装飾品がぶら下がっていて、見れば街中の人々も似たような装いをしていた。
「いつもと服の雰囲気が違うんだな。式典用?」
「はい。少し動きづらいので護衛任務には向きませんが。式典に参加する人は正装する習わしでして」
「ってことは私も?」
「詳しくは直接シルバーアッシュ様からお話があると思います」
 そう言って連れてこられたホテル。ここはカランド貿易が建てたものだそうだ。観光に力を入れ始めた象徴なのだろう。アクセスのよい立地に建てられた品のいい建造物をドクターは見上げた。
「こちらは式典会場から近いので期間中我々も滞在してるんです。ドクターのお部屋は……」
「ドクター!」
 ホテルのロビーに快活な声がわんわんと響いた。手すりに腰掛けてロビーを見下ろしていたフェリーンの少女は、ドクターの姿を見つけると階段を脚で下りるのが面倒だったのかそのまま手すりを使って滑り落ちた。そしてその勢いのままドクターに飛びつくと、歓待の意を込められた銀色の尾がドクターの体にからみつく。
 体幹など無いに等しいドクターは正面衝突と表現してもいいほどの抱擁に危うく倒れかけたがクーリエが自然にその背を支えた。もともと末っ子らしく屈託のない甘え上手な少女だったが、正式に義妹になってからというものスキンシップに遠慮がなくなったとドクターは密かに思っている。
 流石にロドスでは我慢しているようだったが、身内しかいないこの状況では感情が暴発しても無理はないだろう。そしてドクターの方も、今回ロドスの関係者が周りにいないため彼女のまっすぐな愛情表現を全身で受け止めてやっても平気だった。
 華奢だがしっかりと鍛えられているしなやかなバネを感じる体にそっと腕を回してやると、ぐるぐると喉を鳴らす音が聞こえて思わず笑む。兄妹で同じ音を出すのが可愛らしい。衝撃でズレたフェイスシールドの隙間から、ふんわりとお香のような薬草のような匂いが侵入した。いつもの彼女の香りではない。これにいくらか甘さを足すと、彼女の兄と似た香りになりそうだった。
「一緒にロドスを出られなくてごめんね。あたしもやることがあってその準備で前入りしなきゃだったんだ」
「気にしてないよ。それよりもその格好素敵だなクリフハート」
 どことなく彼女の姉がいつも着ている巫女服のような厳かさの感じる衣装だ。だがそれを身に着けていてもお転婆さは変わらない。もし先ほどの手すり下り芸を彼女の兄が目撃したらさぞ苦言を呈したことだろう。だが彼女は自分の 義兄 ドクター と、 兄の従者 クーリエ が告げ口をしないと信じていた。
「えへへ、ありがとう!よーし、じゃあお兄ちゃんが待ってるから部屋に行こ!ドクター!」
 当然のように最上階—といってもこのホテルは景観に配慮した低層のものだったが—に案内され、ドクターは所謂スイートと呼称される部屋に足を踏み入れた。先ほどクリフハートの体から香ったような、スパイスと薬草が混ざった独特の匂いが再び鼻をくすぐる。それは部屋の隅に置かれた香炉から立ち上っているようだった。香りだけでなく部屋に設えられている調度品もイェラグらしさを感じる上質なもので、どうやって使うのか分からないものもいくつかあり、ドクターの目を楽しませた。きょろきょろと見まわしながらクリフハートに続いて部屋の奥へと進む。広々としたリビングスペースにはこのホテルの所有者である男が優雅に立っていた。
「あれっ、お兄ちゃんまだ着替えてなかったの?」
 クリフハートの言葉通り、シルバーアッシュはいつもの装いだった。流石にあの重そうなマントは近くのソファにかけられていたが、それ以外はいつも通り現代風の服をしっかりと着込んでいる。その足元でフェリーンの男性とリーベリの女性がそれぞれ、せっせと手を動かしていた。片方はメジャーを手にして、片方は抱えた布を針で仮止めしているようだ。
「採寸したときと比べて体が変わったからな。最終調整をしているところだ」
「えー!今調整してるの?! 式典に間に合う?」
 クリフハートの少し上擦った声に真剣な様子で手を動かしていた二人が笑った。
「大丈夫ですよ、エンシアお嬢様。直すと言っても足回りを少し弄るだけですから」
「公式の場ですからね。旦那様の体が最も美しく見えるようにしませんと」
 そのやり取りからこの二人が普段からシルバーアッシュ家に出入りしているものなのだとドクターは気付いた。
「もーお兄ちゃん、充分鍛えてるんだから筋肉増やさなくてもいいのに」
「特にトレーニングは増やしていない。日課をこなしているだけだ」
「嘘! この間ヤーカおじさんが「旦那様の肉の消費量が増えた」って言ってたよ。ね、ドクター。これ以上ムキムキになったらドクターだって嫌だよね?」
 壁にかかっていた絵をしげしげと眺めていたドクターはえっ? っと振り返った。
「強いシルバーアッシュが更に強くなるなら、それに越したことはないんじゃないか」
 ドクターの返事にクリフハートが子供っぽく頬を膨らませる。その様子にシルバーアッシュが小さく息をついた。
「エンシア、お前はリハーサルがあるだろう。クーリエと会場に行っていろ」
「えー、でももう少し……」
「大事な役目を任されているのだから、シルバーアッシュ家のものとしてきちんと務めなさい」
 おや、これはなかなか珍しいものを見た、とドクターはフェイスシールドの下でこっそり笑った。クリフハートにとってシルバーアッシュは「兄」であり「父」でもある。だが普段ロドスで二人が会話することは殆どないのでシルバーアッシュの父兄然としたさまを見るのは初めてだった。微笑ましさに思わず頬も緩むというものだ。
「もう! そうやってすぐドクターを独り占めするんだから! 分かりました! 沢山練習したからリハなんてしなくてもいいくらい余裕だけど久しぶりにドクターに会えたから早く二人きりになりたいお兄ちゃんのためにクーリエお兄ちゃんと先に行ってます!」
 一息で言いたいことをまくし立てるとクリフハートは仕上げにべーっと舌を出した。そして苦笑しながらこちらに一礼をするクーリエを引っ張ると「ドクターまた後でね!」と言って部屋を出ていった。 嵐のように場を騒がせて消えていった妹にシルバーアッシュが深いため息をつく。それに呼応してくすくすという密やかな笑いが室内に響いた。笑いつつも二人の仕立て職人はきっちり仕事を終えたらしい。
「旦那様、直しが終わりました。着付けはご自分でされますか?」
「ああ」
「ではひと揃い此処に置いておきますので」
 そう言って広げていた道具類を手早く片付けると、二人はそれぞれドクターにも丁寧に頭を下げてから部屋を出て行った。一転して穏やかな静けさに包まれた室内。先ほどよりも香が強く漂っている気がしてドクターはフェイスシールドを外すことを躊躇った。この香りを直に吸い込むのはなんとなく危険な気がしたのだ。
「今の人たちは、シルバーアッシュ家専属のお針子さん?」
「そうだ。二人とも代々うちに仕えている家のもので、若いが腕は確かだ」
「でも君、他のテーラーでもオーダーしてるだろ?」
「様式によって使い分けている。今回着るものは古典的なイェラグの正装だからな。彼ら以上の適任はいない」
 なるほどと頷いていると、しゅるりと衣擦れの音がしてぎくりとする。
「着替えるのか? それなら私は向こうに……」
 ドクターの言葉を遮るようにネクタイが投げ捨てられた。それだって安いものではないだろうに。
「そこの服をとってくれないか」
 先程仕立て屋たちが置いていったひと揃いを視線で指し示される。どうやら領主様のお着替えに自分も巻き込まれるらしい。ここまで来たのだから付き合うけどさ、とドクターはそれを腕に抱えた。だが想像していた服の重さではなく、うっ、とうめき声をあげる。
「え、重っ……なんだこれ」
「布の重さもあるだろうが、装飾品も多いからな。ああ、そこでいい。そのまま置いてくれ」
「確かにこの腕輪も、イヤリングも石で出来てて更に宝石もついてるみたいだし……。つけてるだけで筋トレになりそうだ」
「そういえばお前も体を鍛えたがっていたな。いくつか持ち帰るか?」
 シルバーアッシュはたまに冗談なのか本気なのか分からないことを言う。尾が楽しそうに揺れているから今のはおそらく、冗談だ。
「お気持ちだけで結構。にしても本当に装飾品が多いな。石のネックレスもあるのに、この捻り紐みたいなネックレスも両方付けるの?」
 服の合間に挟まっていたそれをつまみ上げてドクターが尋ねる。次々に服を脱ぎ落していたシルバーアッシュが、それを見てぴくりと耳を動かした。
「……それはネックレスではない。下着だ」
 部屋の空気がぴしりと固まった。正確に言うなら固まったのはドクターの周りの空気だけだったが。
「し、下着……? えっ……これが?」  麻で出来た紐で編まれたそれは確かに言われて見直せば下着の形状だった。だが布の面積があまりにも少ない。サイドは麻紐を捩じり編んだような形状で、何本か色のついた紐も一緒に編みこまれている。そのカラフルさが余計に異国の下着感を与えてドクターはごくりとつばを飲み込んだ。
「君、が、これを穿くのか」
 確かに見たところ、イェラグの民族衣装には紐の出番が多い。ロドスでたまに着させられる検査着のように紐で固定するスタイルだからかもしれないが、まさか下着までとは。
「見慣れないと顔に書いてあるぞ」
 くく、と笑われてドクターは自分がずっとその下着を凝視していたことに気付いた。照れ隠しにそれを投げ渡すと不敵な笑みを浮かべながらシルバーアッシュは難なくそれをキャッチした。彼はドクターが下着とにらめっこをしている間にその見事な裸体を晒していたようで、投げつけた下着はどうやら早速出番のようだった。
 夫の体なぞ見慣れていると思っていたドクターだったが、自然光の下でそういう雰囲気でも事後でもない状況で眺めることは意外とない。美しく鍛え抜かれたシルバーアッシュの体はそれこそ彫像のように見えるので、明るい中で見ると裸体に淫靡さはなく、芸術品のような厳かさがあった。この美しい男が自分の夫なんだなとドクターはシールドの下でこっそり目を細めた。
 緩く結ばれていたサイドの結び目を解くと、シルバーアッシュはその心もとない下着を慣れた手つきで身に着け始めた。結ばなければすぐに落ちてしまうだろうなとドクターが眺めていると、艶やかな声が「こちらへ」と誘った。
「何?」
「当主の正装は配偶者が着付けるのが通例なのだが、頼んでも?」
 この紐を結んでくれと言っているのか、とドクターはこくん、と唾を飲んだ。
「そ、れくらないなら……」
 シルバーアッシュが手で押さえているところに自分の手を重ねる。美しく盛り上がっている腹斜筋を視界の端におさめながら、ドクターは編み込まれた紐の先を結んだ。
 最初は布の少なさにギョッとしたが、いざ着けているのを見ると、いつも彼が身につけている下着よりも尾が楽そうだった。大胆に見えて意外と理にかなっているのかもしれない。時折尾が仕掛けてくる悪戯をかわしながらなんとか両サイドを結び終わる。背中に変な汗をかいてしまった。
「適当に固結びしたけど、これでいいのか?途中でほどけたらシャレにならないだろ」
「この後、幾重にも服を重ねるからな。正直なところ穿いていなくてもバレはしないだろう」
 なかなかの爆弾発言だ。ドクターはふーん、と気のない返事で誤魔化しつつも公式の場で「穿いてない」シルバーアッシュを想像して少しドキドキした。
「ところで私も民族衣装を着るの?」
「いや、今回お前はあくまでも「ロドスのドクター」としての出席だからな。来賓はこの腕輪を身につけるだけだ」
 彫り物が入った青い腕輪をつけながらそう言われて、ドクターは今日が自分の紐デビューにならないことに安堵した。
「だが、イェラグで式をあげるときには着ることになるだろう」
 龍門の式場でヴィクトリア式で挙げた偽の結婚式。あれはあれでなかなかない経験でドクターは—女装を強いられたとはいえ—満足していたが、シルバーアッシュは自国で挙式し直すことを望んでいる。双方忙しい身なので実現がいつになるかは全くもって不明だが、やや強引に自分の願いを叶えるきらいがある男のことだ。そう遠くない未来、この地で式を挙げることになるのだろう。
「その時は私もこれを穿くのか……」
 か細いつぶやきに低い声で笑いながらシルバーアッシュが何枚目か分からない羽織りを纏った。下着はもう見えなくなっているのに、何故か存在を感じる。衝撃で網膜に焼き付いたのかもしれない。
「そう毛嫌いすることもないぞ。通気性もいいし、服に響きにくい。何より、脱がせやすくて便利だ」
「それは大変。しっかり固結びしとかないと」
「では、ほどかずに噛み切ろう」
 そう言ってシルバーアッシュは牙を見せながらにやりと笑った。確かにこの男ならそれくらい造作もないだろう。ドクターはぞくりとしたものを感じつつ、言われるまま今度はベルト代わりの紐を腰に回して、きゅっと固めに結んでやったのだった。

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