☑創作男性ドクター
☑多数のモブキャラ
☑オペレーターの本名バレ
☑お仕置きックス表現
☑結腸責め
☑♡喘ぎ&濁点喘ぎ
☑各種捏造(特に銀灰家)
時間軸としては8章後で、前回出した結婚本の前にあたります。
この世界線設定の銀博本はおそらくこれが最後になるかなと思っているので、この新刊含め既刊二種も再販、再録はしないつもりです。
なので、今回この本を手に取って下さって、既刊を読みたい方向けに二冊ともweb上で読めるようにしました。(QRからPrivatterに飛びます)
そのまま直で読めるページと電子書籍データがDL出来るDropboxへのリンクを記載したページがあります。
パスワード【】を入れてDL&お読み下さい。読む順番はお好きにどうぞ!
それではお楽しみ下さい!
※実際の本にはQRコードとパスワードの文字列が載っています
天牢雪獄
―誰かが泣いているような声が聞こえる
静かな塔の中では何の音が反響しているのか分からない。でも、雪とともに吹きつける風の音に混じって確かに、少年の泣き声が聞こえた気がした。瞳を閉じて、耳を澄ませる。しかし、次に聞こえてきたのはその微かな音をまるで意図的にかき消すかのような硬質な靴音だった。たちまち探究心がたち消える。
この塔の主あるじが帰ってきたのだ。反射でずくん、と腹の奥が疼く。まるで、自分の体が先に「お帰り」と言ったかのようで思わず渋い顔を作ってしまった。ああ、ダメだ。こんな顔で出迎えたらまた彼に言われてしまう。
「そんな浮かない顔はやめろ」と。彼はひどく辛そうに言うのだ。ここに自分を閉じ込めているのは、他ならぬ彼だというのに。
ギィ、と鉄の蝶番が軋む音。その音にも慣れてしまった。慣れるほど、ここに居る。階段をかけ上ってきた寒風と共に男が部屋に滑り込んだ。肩や髪にキラキラと雪を散らし、濡れてじっとりと重たくなった
入ってきた彼にいつもと同じようにベッドの上から視線を投げかけると、雪山の色を落とし込んだような白皙の頬が淡く緩んだ。この瞬間が、苦手だ。いつもは厳しく張り詰めているその顔がほんの一瞬だけ幼くなる瞬間。こっそり屋根裏にしまい込んだ宝物の無事を、毎日確かめては安堵する幼子のような顔。その顔をされると、どんな行いも許してしまうのだ。だから、苦手だった。
外の吹雪がひどくなり始める。ごうごうと音を立てる風は、塔を取り巻く冷気が一層厳しくなることを示していた。だが自分は知っている。冷気とともに現れた男がもたらすものは、じくじくと体を焦がすような熱だということを。今日もまたあの天窓が熱気で曇るまで彼に抱かれるのだ。自分の選択が間違っていないことを願いながら、静かに目を閉じる。
大きな獣がゆっくりと、手を、伸ばした。
それでも、この一時を「小休止」と称することくらいは許されるだろう。いつまた、対レユニオンの時と同様の大がかりな作戦が始まるかも分からない。だから皆、細々とした任務をこなしつつもこの穏やかな時を味わっていた。
石棺から助け出され怒涛の日々を過ごしたドクターも、ロドスを包む穏やかな雰囲気を是としていた。そもそもロドスには、本来戦いの場に居るべきではない人材が多い。勿論、各々幼いながら信念を持ってオペレーターとして在籍している。それでも血生臭い戦場とはなるべく引き離したいのが大人としての正常な感情だろう。甲板の上で暖かい日差しの下、楽しそうに駆けまわる幼いオペレーターたちを見ながら、ドクターは暫くの間この穏やかさが続けばいいと密かに祈った。例え、この平穏が湖に張った薄氷うすらいのような危ういものであろうとも。
その薄氷にヒビを入れる人物がロドスを訪れたのは、冷たい雨が降る秋のある午後のことだった。来客の到来を秘書から伝えられたドクターはもうそんな時間か、と資料を手に執務室を出た。ロドスの長い廊下をゆっくりと歩きながら、手元のファイルに視線を落とす。ファイルに挟んだ資料の一枚目には顔写真と簡単なプロファイルが載っている。これから会う人物の情報だ。クルビアで貿易会社を営んでいるというフェリーンの男は、四角い枠の中で爽やかな笑みを浮かべていた。
貿易会社を営むフェリーンと聞くと、ロドスにも籍を置く「シルバーアッシュ」が脳裏に浮かぶ。だがプロファイルを見る限り、シルバーアッシュと彼の共通点はフェリーンの男であるということと、貿易会社の社長であるということの二点のみだった。雰囲気も生い立ちプロファイルもまるで違う。
オペレーターとして籍を置いているとはいえ、多忙を極めるシルバーアッシュはロドスに常駐していない。だが、必要な時には必ず駆け付け手を貸してくれている。ドクターを盟友と呼び、時折何かを懐かしむような目と共に意味ありげに触れてくる男。忙しい合間を縫って定期的にメールをよこすそのまめさも、微かな熱を帯びたその文面も、記憶を失う前のドクターとシルバーアッシュが浅からぬ仲であったことを示していた。
彼は記憶のないドクターにすべてを明かす程性急な男ではなかったし、そもそもレユニオンとの戦争に明け暮れていたから互いの関係について深く語り合ったことはなかった。だが、熱っぽい視線を注がれるたびにドクターは分からせられるのだ。シルバーアッシュの中で渦巻く感情を。それにうっすらと気付いたとしてもドクターから特に行動を起こすことはなかった。記憶のない自分には何の資格もない。空っぽな自分が出来ることは「ドクター」として望まれることを精一杯務めるだけ。ドクターは常にそう考えていた。石棺から助け出されてからというもの、ドクターの胸中には自分の個人的感情や幸福を追い求めるという願望は存在していなかった。それでシルバーアッシュとも宙ぶらりんな「盟友」という曖昧な関係を続けている。
「ドクター?」
応接室のドア前を警護していたスタッフに呼びかけられてはっと顔をあげる。つらつらと考え事をしながら歩いていたら、いつの間にか目的地に着いていたらしい。しかも、これから会う男のことではなく、最近とみに自分の心を揺らしている男のことを考えてしまっていた。何をやっているんだとドクターはシールドの下で自嘲した。仕事を、しなくては。
ファイルを閉じて脇に抱え直すとドクターはドアをくぐった。応接室にはすでにアーミヤとケルシーがソファに座って待機しており、手を挙げて挨拶するとアーミヤが微笑んだ。ケルシーはちらりとこちらを一瞥しただけだった。
「遅刻だったか?」
「いえ、大丈夫ですよ。では通してもらいますね」
アーミヤの言葉に頷きながらファイルをテーブルに置く。ろくに確認出来なかった書類たちがはみ出して、ほんの少し罪悪感に襲われているとドアが開いた。正式な手順を経て来客者リストに名を連ねた男は、応接室に通されるとまっすぐロドス・アイランド製薬CEOの前まで歩みを進めた。自分よりも遥かに年下であろうアーミヤに丁寧で品のよい一礼をし、握手を求める。身長はドクターより四、五センチ高いくらいだろう。中肉中背で、顔は整っているが鼻は神経質そうに尖っている。瞳はブルーグレーで他のパーツのバランスから見ると少し大きく、きょろりとよく動いた。砂色の髪はきっちりと撫でつけられているが、前髪は遊びで垂らされており、一見すると冷たく見えそうな風貌に少しの甘さを与えている。
企業の代表らしく、明るいライトグレーのスーツに身を包み、白ドットがあしらわれた紺のネクタイにシャツは薄いブルー。それに合わせて胸ポケットからは青のチーフがチラリと顔を出していた。瞳の色と合わせた、いいコーディネートだなと素人目にもドクターが思うほど彼は洗練されていた。シールドの奥から密やかに視線を走らせているとドクターは心中であっ……と小さな声をあげた。以前、シルバーアッシュが私用で着ていたスーツと同じブランドロゴが、彼のスーツにもついていたのだ。同じテーラーが仕立てたものなのか、それならば質の良さも分かると納得したところでドクターの眼前にも手が差し出される。嫌味のない、爽やかな笑みを湛えて上から下まで隙のない男はドクターにも握手を求めてきた。事前に情報を集めていたのだろう。このような場でも素顔を明かさないドクターを不躾に眺めることもなく、あっさりと握手を終えると互いに腰を下ろした。
頃合いを見て、茶器が運ばれる。いつもよりも濃く香るコーヒーにドクターの鼻がくん、と動いた。聞けば、彼の手土産だという。ドッソレス産のコーヒー豆だそうだ。流石貿易会社の社長なだけはある。
「お忙しい中、時間を頂き感謝します」
男の言葉にこちらこそ、とアーミヤが背筋を正しながら言を返す。
「鉱石病へ関心のある企業との対話はロドスにとっても得難いものです」
「レユニオンとの戦いを征されたロドスの市場価値は相当なものですから。是非お話を聞きたかったんですよ。そして出来れば共にビジネスがしたい」
スーツの色に相応しい爽やかな笑顔。だがその爽やかさで隠そうとせず彼ははっきりと打算的な考えを伝えた。アーミヤが一瞬返答に詰まっていると、ケルシーがいつもの冷淡な声で切り返す。
「時間は有限だ。それなら早速始めよう。率直に聞くがそちらが貿易会社としてロドスに求めることは?」
カチャ、と茶器の擦れる音が響く。ケルシーの素早い切り返しに動じることなく男はゆったりと足を組み替えた。
「我がゴフェル・ツリー貿易はもともと木材をメインに扱ってきました。しかし、テラを襲っている鉱石病の脅威は年々深刻になるばかり。木で病は防げない。それで遅ればせながら我々も医薬品部門に力を入れたいと考えておりまして。ロドスの薬を取り扱いたいのは勿論、かねてから研究をしていた自社製品の開発もこの機会に進めたい」
「ロドスの技術を手に入れたいと?」
「とんでもない。と言いたいところですが場合によってはそういうことになりますね」
余りにも堂々とした物言いに僅かな緊張が応接室に走った。三対の瞳から放たれる視線を笑み一つでいなすと彼はまた足を組み替えた。
「勿論、ただでとは言いません。うちの研究内容の共有も勿論しますし、研究員も出向させます。研究に必要な資金は全てこちらが出しますよ。ロドスが諸々の活動のために戦闘員オペレーターを使っているのも存じていますので、必要ならそういった人材も提供できます。そして……まぁこれが一番の対価になるかと思いますが、ロドスの薬をもっと大々的に行きわたらせるお手伝い、それを我がゴフェル貿易にさせて頂きたい」
詳しくは資料をご覧下さい、と言うと傍に控えていた彼の部下が書類を配る。簡潔に、だが分かりやすくまとめられた資料を見る限り、企業としての地力は申し分なさそうだった。基本的に、ロドスは優秀な人材であればキャリア不問で受け入れている。だがこの規模の企業まるごと、となるとまた話は別だ。
「……ロドスへのメリットが多い気もするな」
内容を改めて確認したケルシーが呟く。ドクターもそれには同意だった。おそらくアーミヤも多少のうさん臭さを感じているだろう。
「ロドスという看板をお借りするんですからこれくらいは提示しませんと。それにこちらにも旨味はあるんですよ。鉱石病や感染者に対する差別の目は地域差がひどいですから、それを均ならしたいと常々思っておりましてね」
確かに、薬の分布と共に鉱石病患者への理解が深まれば、そのあたりの地域差は緩やかになくなっていくだろう。それはロドスで日々、鉱石病患者たちの現状を目の当たりにしている三人にとっても共通の認識だった。
「鉱石病患者への地域ごとの差別をなくしたい、というのは勿論同意できます。でもそれをする理由は御社の今後のビジネスのため、ということでしょうか?」
アーミヤの質問の意図を理解した男がにこりと微笑んだ。嫌味ではないが多少鼻にはつく。ドクターがシールドの下で目を細めた。
「テラの現状を憂いている企業としての気持ちもありますが、ホラ、ひとつの方法で複数の結果を出そうとするのは当然でしょう?」
また彼が足を組み替えた。
「ロドスがテラの未来のために必要な企業であることは確かです。私どもゴフェル貿易はロドスの企業方針を全面的に支持しております。取って代わろうなどとは微塵も思っておりませんのでご安心を」
「……」
応接室に静寂が満ちる。男はその空気感にふむ、と顎に手をやった。
「まだ疑わしいですか? じゃあもう一つ、こちら側の要求を提示しましょう。本来なら契約がもう少し進んでからお話しようかと思っていたのですが」
アーミヤが視線を彼に縫い留めたまま頷いた。
「ロドスはあの、イェラグのカランド貿易と通じていますよね。詳細は外部に発表されていないので分かりかねますが、カランド貿易のトップがこちらと何らかの契約を交わしているというのは企業家たちには周知の事実です」
カランド貿易との縁を始めたのはドクターである。故に、なんとなくこの話題には自分が動かなければならないとドクターは直感した。
「それが何か」
ドクターが初めて声を発したことに、彼は少なからず驚いたようだった。発声器官を病んでいるとでも思っていたのだろう。会話が可能と分かると初めて、フェイスシールドの向こうを探るような視線を投げかけた。暫し、互いに見つめ合った後、彼はにこりと微笑んだ。
「私どもと契約を交わすなら、カランド貿易とは手を切って頂きたい」
アーミヤがつぶらな目を見開く。ケルシーの表情は変わらない。ドクターは小さく肩をすくめた。同業他社を引き合いに出してきたのだから、きっとその類のことを言われるだろうと予想していたのだ。
「うちと仕事したいならそういう色んな垣根を越える覚悟を持ってほしいところだが」
ドクターの言葉に彼は勿論、と頷いた。
「ロドスのポリシーは理解していますし、これが他の貿易会社なら私もとやかく言いませんとも。ですが、カランド貿易だけは、どうしても」
「……何かあった風な言い方だな」
「過去の経済ニュースを漁れば簡単に出てくることで、今更隠すようなものでもありませんから、お話しましょうか」
ちらりと高そうな腕時計に視線を落として時間を確認すると彼は言葉を続けた。
「うちは昔、祖父の代にまだカランド貿易がないころのイェラグと業務提携をしたことがあるんです。イェラグの、シルバーアッシュ家とね。ですがその時にひどい目にあいまして危なく全て手放すところでした。祖父はそのときの心労がたたって亡くなり、ボロボロ状態の会社を若くして継いだ父も、会社の立て直しに心血を注いだせいでやはり、早くに亡くなりました。それで私も同じように若くして会社を継いだわけです」
軽薄そうな笑みと共に伝えられたが、なかなかに壮絶な歴史だった。再び応接室を包んだ重い沈黙を裂くように彼がははっと笑った。
「私も祖父や父のように早死にしたくないのでね。イェラグ由来のものとはなるべく関わりたくないんです。私だけでなくうちの社員たちはイェラグ、カランドと聞いただけでペンを落としてしまいますよ」
「……なるほど。そちらの事情はよく分かった。だが、ロドスにはイェラグに所縁のある患者もいる。ロドスのポリシーを理解しているというなら、うちが患者を放り出すような企業でないことは分かるはずだ」
ああ、と彼が頷いた。
「勿論です。そこは譲歩しますとも。知っておりますよ、シルバーアッシュ家の次女、エンシアさんが治療のため在籍してらっしゃるんでしょう」
個人情報のためドクターは黙ったが男はそのまま続ける。
「彼女はカランド貿易とは無関係でしょうし、なにより鉱石病患者だ。それはうちの社員たちも理解しています。ですが例外は患者である彼女だけです。それ以外とはすっぱり、手を切って頂きたい」
詳細は知らないなんて言っていたが、言葉から察するに彼は全て知っているのだろう。カランド貿易の、イェラグの人間が何人ロドスに居るのかを。
「勿論すぐに返事を求めてはおりません。どうぞゆっくり時間をかけて弊社と提携するメリットについて考えて頂ければ。必要な情報は言って頂ければ全て開示いたします」
きっちり一時間、予定されていた時間通りに話を終えると彼は部下を伴ってさっさと応接室を出て行った。一息つく間もなく入れ替わるようにロドスの職員が応接室に顔をのぞかせる。
「アーミヤさん。整備担当の者たちが甲板に集まりました」
ぴくっと焦げ茶の耳が動く。
「そうでした! ケルシー先生、ドクターすみません。私次の打ち合わせが……」
「構わない」
ケルシーの言葉と共にドクターも頑張って、の気持ちを込めて手を振った。
「今回の件についてはまた追って連絡しますね」
そう言ってアーミヤは慌ただしく応接室を後にした。冷めたカップを手にするケルシーをドクターがちらりと見やった。
「ケルシー」
「私に意見を求めるのか」
それもそうだ。シルバーアッシュへの信頼がマイナス値からスタートしているケルシーにとって、他者が言う「カランド貿易への不信感」などドクターよりも自然に受け入れるだろう。だがそれでも、カランド貿易とロドス・アイランドは決して浅くない関係性にまで達している。じゃあ手を切ります、と簡単に言えないのも事実だった。
「カランドを捨てて、ゴフェル貿易と手を組むメリットはあると思うか?」
一口コーヒーを啜ってケルシーがソーサーにカップを戻す。
「詳しい試算はこの後出すが、至極単純に計算してもロドスへの益が多いのはカランド貿易ではなく、あちらだろうな。研究員と戦闘員の数を合わせたら三桁の人員だ。確かにうさん臭さを感じるのは否めないが、彼の祖父である創立者の侯爵を私はよく知っている。もっとも侯爵は孫よりも貴族らしい男だったが」
確かに今日会った彼は貴族というよりはやり手のビジネスマンだった。
「これらの事項で、君が私の結論を推察するのは難しいことではない」
なるほど、とドクターは頷いた。ケルシーの知っている相手ということはかなりポイントが偏るだろう。
「カランド貿易にとっては不利な天秤だな。最初から片方に錘が乗っているなんて」
「……もし本当にカランド貿易との関わりを断つのなら、多少強引な方法になるだろう。何せ、シルバーアッシュはそもそも自分に不利な条約を提示されてもそれを受け入れて、ロドスに入り込んだ男だ。そう簡単に納得をするとは思えない。もっとも、君たち二人の間に何か、個人的な綻びがあるのなら話は別だが」
うっ、とドクターがカップを揺らした。ケルシーの言葉はいつだって全てを見透かしているかのような響きを持つ。
「そして、どちらにせよ最終的な判断を下すのはアーミヤだ」
「でも結論が出たらそれを彼に伝えるのは私の役目なんだろ」
立ち上がったケルシーがちらりとドクターに視線を向けた。
「そうだ。シルバーアッシュは君としか会話しない。痴情のもつれにならないように、慎重に言葉を選ぶことだ」
「そんな関係じゃないんだけど……」
「……私が言えるのは、この艦ふねが沈むことのないように行動してほしいということだけだ」
ぽりぽりとフード越しに頭を掻くドクターの前でそう言ってケルシーは踵を返した。カツカツと規則的な音を響かせながらドアに向かうその背中は女性らしく華奢だ。だが、その背中が自分には想像もつかないほど重い責任を抱えてきたことを、レユニオンとの戦いを経てドクターも理解し始めていた。「君もきちんと決断をしろ」と言われているような錯覚に陥ってドクターが肩をすくめる。一人になった部屋に深い溜息がこだました。
執務室を出たケルシーはドアの外で立ち止まって軽く天を仰いだ。表情は常よりも硬い。
「過去を受け入れるのか、拒絶するのか。どちらを選んでも困難な道だ、ドクター」
重そうに発せられた言葉を受け止めるものはここに居ない。
また一つ、氷にヒビが入った。
ゴフェル貿易についての会議は一週間後。アーミヤからそのメールを受け取ったドクターは、判断材料を増やすためにロドスの貿易所を訪れた。過去の取引履歴の資料をまとめるためだ。特に二人から言われたわけではない。自分の公平な判断のために必要だと思ったのだ。
一番近い貿易所のドアを開けると丁度休憩中だったのか、隣の製造所や宿舎からも何人かオペレーターたちが集まっておりなかなかの賑わいを見せていた。
「あれ、ドクターじゃーん。なになにー次の取引までまだ時間あるよー?」
アンブリエルがチョコを纏ったビスケットを口に放り込んでから、ドクターに手を振った。
「ごめん。邪魔をするつもりじゃなかったんだ。ちょっと記録を確認したかっただけだから。休憩中なら出直すよ」
上司がいてはせっかくの憩いの時間が台無しだろう。ドクターは彼女に手を振り返して、回れ右をしようとしたがその回転を背後から伸びた手が止める。
「おっと。どうした? ドクター」
「ああ、ミッドナイト。君も休憩か」
入り口を塞いでいた長躯のサルカズが柔らかく微笑む。
「毎週この時間はお嬢様方の
「それは素敵だ。オペレーターたちが友好を深めた分、作戦の成功率は上がる。どんどん開催してくれ」
「ドクターも一緒にお茶しよーよ。ほら、お菓子とお茶沢山あるからさ」
「そうだよドクター。仕事が急ぎじゃないなら、だけど」
ウタゲの手招きとアンジェリーナの控えめな後押しを受けてドクターはうーんと唸った。悩んでいる様子のドクターの肩をミッドナイトが引き寄せてそっと囁く。
「ドクター、俺が思うに、指揮官ドクターがオペレーターたちと話題を共有することも作戦の成功率を上げるのに関係あるんじゃないかな」
ここまで言われたら断る理由はなかった。本人たちがいいと言うならいいか、と誘導されるまま空いている椅子に腰かける。紙皿に盛られたお菓子の山からなんとなく彼女たちの好みが透けて見えてドクターはこっそりと笑った。
「ミッドナイトがいつも呼ばれているってことは、どんな話をしているのか想像がつくな」
「あったりー。基本恋バナしてるよー。でも女子だけだと意見が偏るでしょ」
「男性側の意見だいじだかんねー」
「あっ、でも毎回必ずってわけじゃないんだよ。男性枠っていうよりむしろ大人枠っていうか……」
アンジェリーナが慌てて補足する。その様子をウタゲとアンブリエルがにやにやと眺めていた。
「話し合いには多角的な視点が必要だから、人生経験の違う人を混ぜるのはいい判断だ。で、今日の議題は何なのかな」
「「「思わせぶりな態度をする男について!」」」
ぴったりと息のあった女子三人。ミッドナイトが「……だそうだよ」と言いながらドクターに紙コップを手渡した。使い捨てのそれには誰が書いてくれたのか蛍光ペンでドクターのコップ♡ と書かれている。まるでシャンパンを注ぐような美しい所作でポットの紅茶を淹れてもらいながら、ドクターは肩をすくめた。
「なかなか白熱しそうなテーマだな」
「いやーたまたま今月の雑誌の特集がそれでさー」
ウタゲがビスケットをドクターの手にころんと置いた。アンブリエルに「それ、美味しいよ。食べてみ?」と言われて覆いを少しずらして口に入れる。バターの香りと強めの甘みを感じる、いかにもこのメンツが好みそうな味だった。お茶会にはぴったりだろう。もぐもぐと口を動かしていると、アンブリエルが雑誌を捲りながら口火を切った。
「はっきり好きです! って言わないくせして、態度は思わせぶりな男ってどこにでもいるっしょ。あれなんなんだろーね。こっちから言ってくれるの待ち?」
「男って「いける!」って確信しないと行動に移さないって前に母さんが言ってたなあ」
家宝の刀を護身用として娘に渡す母親と年相応の話をしていたのだな、とドクターが思っていると隣のアンジェリーナがもぞっと体を動かした。
「言えない理由があるのかもしれないし……。もし好意を感じたら、あたしは思い切って自分から言うかな」
「「アンジェはまぁ、そうだろうねー」」
二人の声が綺麗にハモる。ぷくっとアンジェリーナのコーラル色の唇がとんがった。
「てか、こっちから言うにしてもさ。コイツほんとにアタシのこと好きなの? ってなるよ。曖昧な態度ばかりだと」
「そんなときは一度離れてみるのが一番っしょ」
「やっぱその戦法?」
アンブリエルが頷くたび、咥えていた細長い菓子が上下に揺れる。アンジェリーナが身を乗り出した。
「でも! それでそのまま他の人にいっちゃったら?」
「そりゃあそこまでってことで」
ええーと茶色の眉が下がる。
「あたしには怖い賭けだな……」
「アンジェは慎重だったり大胆だったり忙しいな~」
「ええ? 普通じゃない?」
そう言ってアンジェリーナが皿からビスケットを取る。だが背後から伸びた手がそれをひょいとかすめ取った。えっ? と驚いて振り返ると、いつの間にか現れたグラベルが奪ったビスケットを一口齧っている。
「離れてみて初めて「あたし、こんなにこの人の事好きだったんだわ」ってなることもあるわよ~」
「もー、びっくりさせないでってば。またあそこに隠れてたわけ?」
ウタゲが部屋の隅をちらりと見る。
「ふふ、そうよ~。面白そうな話をしてたから出てきちゃった~」
全然気づかなかった、とドクターは内心思っていたが口には出さなかった。ミッドナイトは慣れた様子でグラベルにもお茶を勧めている。
「ええと、つまり、一度離れると双方気づきの機会があるってこと?」
気を取り直してもう一つビスケットをつまみ上げるとアンジェリーナがミッドナイトに問いかける。静かに女子たちの会話を聞いていたサルカズは穏やかに頷いた。
「そうだね。それはあると思うよ、男女関係なくね」
そうなんだ……とアンジェリーナがふと、視線を隣に向けた。先ほどからドクターは置物のように微動だにしない。不安になった彼女はシールド部を覗き込んだ。
「ドクター? 大丈夫? ね、寝てる?」
「ああ、いや。寝てないよ。ちょっと考えてた」
「えー? なになに、今の流れで考え込むってことはドクターにもそういう相手がいるってことー?」
ウタゲの言葉にざわっと貿易所が沸き立つ。グラベルは、あらぁ~と口に手をやり、ミッドナイトは無言で自分のコップをドクターのコップに打ち付けた。乾杯のつもりらしい。アンジェリーナは髪の毛をふわりと逆立たせて、今にも宙に浮かび上がってしまいそうだった。アンブリエルは相変わらず口元の菓子を上下させている。
そういう相手、と言われて脳裏に浮かぶのは一人しかいない。だが勿論オペレーターたちに言えるわけもなく、探るような視線をドクターは笑ってかわした。口元の覆いを少しずらして、温くなった紅茶を飲み干すと立ち上がる。
「さて、私はそろそろ執務室に戻ろうかな」
撤退するなんて余計怪しい! とウタゲとアンブリエルが抗議の声を上げる。二人の口にそれぞれ菓子を突っ込んでやろうかとも思ったが、ハラスメントの一種になる可能性を考えてやめた。そのまま出口に向かおうとするドクターにアンジェリーナも立ち上がった。
「あれ、ドクター。資料は? いいの?」
「うん。必要なくなった」
不思議そうに頭を傾ける彼女の頭をぽんぽんと撫でると、ドクターは室内の面々に視線を向けた。
「貴重な話ありがとう。楽しかったよ。皆みんな午後もよろしく」
観念したのかはたまた早く次の話題に移りたいのか、二人の女子は緩く手を振った。「またねー」「来週もおいでよ」などの言葉が飛び交う。グラベルが軽い身のこなしでドクターの傍まで寄った。
「執務室まで送りましょうか~?」
「いや、大丈夫だよ。ありがとうグラベル」
背を向けたままひらひらと手を振って貿易所を後にする。ドアが閉まると一瞬で喧騒が遠のいた。静かなエレベーターホールで一人になって改めてドクターは己の心と向き合った。エレベーターを待つ間、ただひたすらに思考をぐるぐると巡らせる。
「ドクター? 乗らないんですか?」
いつの間にか到着していたらしいエレベーターの中から、職員が棒立ち状態のドクターに声をかけた。
「……いや、乗るよ」
急いで乗り込むと「執務室のある階でいいですか?」と問われたので頷く。ボタンを押しながら職員が苦笑した。
「あまりあちこちで考え事しないでくださいよ。ただでさえロドスの地下は工事中のところが多いんですから」
「そうだね。穴にでもはまったら大変だ」
「そうですよ。そうなったらケルシー先生に怒られるのはドクターですからね」
そんなたわいもない話をしているとあっという間に目的のフロアに着いた。職員の男は丁寧にエレベーターのドアを手で押さえると、降りるドクターの背中に声をかけた。
「執務室に着くまで考え事は禁止ですよ!」
了解、の意味をこめて手を上げると安心したのかエレベーターは閉まって更に上を目指していった。
「まぁ、もう考え終わったからね」
ポケットに手を突っ込んでドクターは独り言ちた。心の整理がついたせいか執務室への足取りは軽い。
だが、ロドスを取り巻く氷のヒビは、確実に増えていた。
「それでは、ゴフェル貿易との業務提携についてケルシー先生、ドクター。意見をお願いします」
例の会談から一週間。トップ三人は執務室に会していた。ロドスの今後を決める重要な話し合いのため室内及び周りの部屋も人払いをしてある。秘書も今回は遠慮してもらった。執務室のデスク前に置いてあるコーヒーテーブルとソファは応接室にあるものと似ている。落ち着いた色調のソファに体を沈ませて、ドクターはケルシーが口火を切るのを待った。
(年功序列ってことで)
その言葉を実際に口にしたら、あの華奢な背中からすぐにでもMon3trが飛び出して鋭い爪で脅されることは想像に難くない。だからドクターは口を閉じてじっと待った。聡明なケルシーならこの僅かな間まで意図に気付くだろう。そしてその予測は当たった。
「ゴフェル貿易が提出したデータを元に、この一週間であらゆる側面からロドスに益があるのかを計算した。その結果を元に私個人の意見として述べる。私はゴフェル貿易との業務提携に賛成だ」
テーブルに置かれた分厚い書類の束が、彼女の一週間の重みを伝えてきた。自分がケルシーと反対意見だったらこれを覆すのは難儀だっただろう。そうドクターが思うほど、中身も無駄がなく、正確で緻密だった。
「ゴフェル貿易との提携はカランドとの契約終了を意味します。あちらも大企業ですが、カランドとの契約続行よりもゴフェルとの新規契約を優先するほうがロドスのためになる、ということですか?」
「そうだ。確かに多少のきな臭さは認めるが、カランドとの怨恨も経済紙アーカイブで確認出来た。勿論どこまでが真実かは私たちに知る由はない。大量の人材を受け入れることにリスクがあるのも承知だ。だが、それを差し引いてもカランドよりもゴフェル貿易に利するところがある」
アーミヤが真剣な面持ちで耳を傾ける。
「ゴフェルは企業としての歴史がある。一度倒産寸前までいきようやく立て直した会社をむざむざ危険な道に戻すことも考えにくい。あちらがロドスに何かを仕掛けるメリットは少ないだろう」
むしろ、歴史の浅いカランドの方が信用ならない、と言外に滲まされているようで、ドクターは背筋をもぞっとさせた。
「ケルシー先生の仰ることはよく分かります。ですが、私はやはり損得よりも人と人の繋がりを気にしてしまって……」
「……それは君の美点だ、アーミヤ」
間髪入れずに返された言葉にアーミヤが微笑む。ドクターも同意の気持ちを込めて頷いた。
「カランド貿易の皆さんは、とても良くして下さっています。勿論、クリフハートさんの存在もあるとは思いますが、トップのシルバーアッシュさんを動かしているのは、やはりドクターとの関わりでしょう。シルバーアッシュさんはロドスに寄られても、ドクター以外とは話されませんし。その思いを解しているのは……」
そう言ってアーミヤはドクターに視線を向けた。その瞳は、おそらくカランド派だろうドクターの意見を聞くまでは決められない、と語っていた。自分の番だな、とドクターがソファに浅く座り直す。
「……私は、ゴフェル貿易との契約に賛成だよ」
えっ、とアーミヤがこげ茶の耳を揺らした。ドクターの言葉があまりに予想外だったのだろう。ぱちぱちと大きな目を瞬かせている。
『コイツほんとにアタシのこと好きなの? ってなるよ。曖昧な態度ばかりだと』
『そんなときは一度離れてみるのが一番っしょ』
『でも、それでそのまま他の人にいっちゃったら?』
『そりゃあそこまでってことで』
脳内で再生される声。口にあの時のビスケットの甘さが広がった気がした。おそらく、もしシルバーアッシュとこのままずるずると不透明な関係を続けていたらもっと面倒くさいことになる。どっちつかずの距離を保つくらいなら、いっそ離れてみたほうがいい。駒を一旦下げるのがベスト。それがあのお茶会を経てドクターが出した結論だった。そして今回の件はそれを実行するまたとない機会だ。
「もう少しゴフェル側に譲歩してもらえないか頼んで、両者のいいとこ取りが出来ないかなって、最初は思ったんだけど。折角の提案の数々に水を差すのもね。ロドスのメリットを優先した結果この結論に至った。つまり、ケルシーの意見と相違ないよ」
個人的な思いを吐露するわけにもいかないので、適当なそれっぽい意見を述べる。ケルシーは足を組んで瞳を閉じており、ドクターの方を見向きもしなかった。
「まさか……。ドクターからそちら側の意見が出るとは思いませんでした」
「ああ、でもこれは私個人の意見だから。アーミヤの意見を尊重する」
アーミヤが困惑を隠さない表情を浮かべたままケルシーにちらりと視線を向ける。視線を感じたのか彼女は静かに目を開けた。その瞳は変わらず厳しい色をしていたが、激しさはなく、凪いでいる。その瞳に後押しされるようにアーミヤがぎゅっと膝上の拳を握った。
「勿論私に決定権があるのは理解しています。でも、ドクターが記憶を無くされる前、この艦ふねの舵取りはドクターに任せていました」
「……今の私に、以前のような働きは出来ないよ」
だからそう信頼されても困る、と続けるとアーミヤは静かに頷いた。
「はい、それも理解しています。ですが、やっぱり私はドクターの「こうした方がいい」という意見を聞くとそれが最上の選択のように思えて仕方ないんです。刷り込み、みたいなものでしょうか」
アーミヤが困ったように眉を下げ、小さく笑った。個人的な感情を建て前で包んで油で揚げたものを出した気持ちでいたドクターには、その言葉は鋭い棘のように刺さった。だが今更、言う訳にもいかない。
アーミヤの方がよっぽど私より大人だなとシールドの下で嘆息する。ここは彼女の言葉に甘えよう。
「じゃあ、ゴフェル貿易との新規契約及びカランドとの契約終了で決定ってことで」
ドクターがそう締めると、沈黙を保っていたケルシーが口を開いた。
「今回、最終的な決定をしたのは君だ、ドクター。だとしたら最後に言うべき言葉があるのでは無いか」
アーミヤがえっ? とケルシーを仰ぎ見た。暫しの沈黙が執務室に満ちる。ドクターは少し考えを巡らせた後、ハッキリとした声色で告げた。
「今回の決定についての責任は、全て私が取る」
薄氷に一際大きなヒビが、ピシリと入った。
大事な話がある、とシルバーアッシュを呼び出すと彼はすぐにロドスに現れた。クーリエから彼のここ最近の忙しさを聞いていたドクターはそのあまりの早さに驚いた。執務室に入ってきた男が優しい声音で「変わりはないか、我が盟友よ」と言葉をかけてきて更に、心苦しくなる。何せ、今から話すことは自分たちの関わりを強制的に断つものだ。案の定ドクターから契約終了の話を聞くと、シルバーアッシュは怜悧な眉を顰めた。
「それは私たちの関係を指しているのか」
「こんな時でも冗談を言うのか? 企業間の関係に決まってるだろ。そもそも君と私は……」
何も始まっていない、と続けようとしたが氷のように冷たい視線を受けドクターははっと口をつぐんだ。ゆらりと立ち上る銀毛の尾は荒々しく峙そばだち、毛の一本一本が静かな怒りを纏っているようだった。
「企業間、と言うのなら私が個人的にお前に連絡を取ることは可能だな?」
「……悪いけど、暫くは控えてくれるとありがたい。新しい取引相手の機嫌を損ねたくないから」
「ほう……。つまり、私よりも向こうに価値があると判断したのか?」
「ケルシーが試算したデータによれば」
「お前の意見はどうなのだ」
ドクターは厳しい視線から逃れるように視線を床に落とした。
「彼らは戦闘員も技術者も研究者も沢山ロドスに出向させると言ってきた。ひとりひとりのレベルは分からないが、それでも鉱石病に関心のある相当数の人材が増えるんだ。ロドスの益になることは明白で……」
「有象無象を抱えたところで何かが変わることはない」
珍しく言葉を遮られた上、歯に衣着せぬ物言いにドクターが思わず顔を上げた。正面からまっすぐ飛んでくる視線を受け止める。シールド越しでもそれはひどく冷たかった。
「資料を見たけど、彼らは充分すぎるほど成果をあげている。有象無象なんてとんでもない」
「では、証明して見せれば納得するか? ゴフェル貿易よりも
「……ゴフェル貿易との契約はもう交わされたんだよシルバーアッシュ。君がもしあちらに喧嘩を売ったら、私たちが手を貸すのはカランドじゃない。ゴフェルだ」
ドクターの言葉に目の前の男は冷たく笑った。
「ふ、望むところではないか」
対決も辞さない、と滲まされてドクターが慌てる。
「本気で言ってるのか? いつもの君ならそんなこと考えないだろ。私の知っているシルバーアッシュは……」
シールドの奥で、ドクターは唇を開けたまま止まった。
—自分は、シルバーアッシュの何を知っているというのだ?
ひどく重い沈黙が執務室に満ちる。テンジンがまるで体に積もった雪を落とすかのように、シルバーアッシュの肩上でぶるっと体を震わせた。
「
「それは……感謝してるよ。勿論」
「だがそれはロドスのためではない。すべて、お前のためだ」
じわじわと熱を帯びていく瞳。虹彩をふちどるその淡い色は冬の、夜明け前の光を受ける
「私たちのかつての『個人的な』関係についても、私は語らなかった。記憶を失っているお前を尊重し、私はあくまでも紳士的に向き合ってきたと自負している」
どう返事をするべきか、ドクターは迷った。「慎重な言葉選びを」というケルシーの言葉が脳内をぐるぐると旋回している。
「だが、もう必要ないな」
いつもは甘い響きをのせている声が、今はただ低く擦れている。燃え上がった瞳の奥には昏い色が灯っていた。今まで決して浴びたことのない暴力的とも言える視線にさらされ、ドクターはぞわりと肌を粟立たせた。まるで足元から冷気がつたって、心の臓にまで到達し鼓動を止めてしまいそうだ。思わず胸元に手をやってしまう。ドクターが死の恐怖に怯えるほど、目の前の男はガラリと雰囲気を変えたのだった。
「お前の望み通り、カランドはロドスとの契約を終える。こちらに詰めている者も荷物をまとめ次第、イェラグに帰還させよう」
「……クリフハートは例外として認められた。だから、彼女のことは引き続き私たちに任せてほしい」
どの口が、と詰なじられる覚悟でドクターが言う。だがシルバーアッシュは僅かに瞳を細めただけだった。黒い外套が翻る。いつもよりも重そうにそれをはためかせて、男は執務室から出て行った。彼が退出すると執務室に満ちていた凄まじいプレッシャーが少しずつほどけていく。
ドクターは、はぁ、と一つ息を吐いた。ふわりと浮かんだ白いもや。それが立ち去った彼の怒りを表していた。空調はきいている筈なのに、やけに寒い。まだ、心臓のまわりを冷気が脅かしているようでドクターはぎゅっと目を瞑った。
翌日、カランド貿易との契約終了がロドス内に通達された。突然どうして、という声が上がるものの、上の決定に逆らうものは居ない。粛々と撤退の準備が進められていき、そもそも大人数ではないのであっという間に、彼らがロドスを発つ日がやってきた。
格納庫前の待合室にはクーリエとマッターホルンが居た。クリフハートは部屋にこもっているらしい。そちらにも後できちんと話に行かねばならないだろう。
「……すまないね。色々良くしてくれたのに」
ぽつりと呟いたドクターの言葉に二人は揃って首を横に振った。メッセンジャーとして行き来の激しかったクーリエはともかく、クリフハートの護衛を名目にロドスに常駐していたマッターホルンはまとめる荷物が多い。その殆どが調理器具の類だったが別便で送らなくてよいのかと尋ねたくなるほどの物量が足元に置かれていた。
「俺たちのことはお気になさらず。ですが……」
「ああ、勿論クリフハートのことならちゃんとこれまで通り面倒見るし連絡もさせるよ」
「エンシアお嬢様はもう立派なロドスの一員です。一人でも治療に励みオペレーターとしての役目を果たされるでしょう」
「そうだろうけど……」
ドクター、と穏やかな低い声が言葉を遮った。
「心配しているのは、あなたのことです」
ドクターが疑問の色を滲ませた視線を二人の間で往復させる。今度はクーリエが困ったように眉を下げながら、口を開いた。
「今回のことが企業としての一決定であるのは重々承知しています。ですがドクター、旦那様と充分話し合いはされましたか?」
黙りこくったドクターの様子に察したのか、二人は顔を見合わせた。アイコンタクトを交わした後、更にクーリエが続ける。
「ドクター、イェラグの男は寡黙です。長い冬を耐え、雪解けを待つ忍耐さと慎重さを持っています」
うん、とドクターが先を促す。
「だから常に、ことを急ぐような行動はしません。機が熟すのを待ち、最善のタイミングで仕掛けます。ですから気持ちを相手に理解されないことも残念ながらあります」
彼がシルバーアッシュのことを言っているのだとドクターは気付いた。
「……さっき君が言ったように、今回の決定に個人の感情は関係していない」
「はい。勿論、そうだと思います。ですが……」
言いよどむクーリエにマッターホルンが見かねて続きを発した。
「俺の家は祖父の代からシルバーアッシュ家に仕えております。『よく守るために、よく知れ』とは祖父の教えです。護衛には当主の思いを汲む力が必要だと。ドクター、ゆえに俺は学びました。シルバーアッシュ家のことを」
ドクターがマッターホルンに視線を縫い留めた。普段は穏やかな笑みを浮かべるフォルテの男の瞳は今とても厳しい色を湛えている。
「シルバーアッシュ家の男は、
「……私は彼の番じゃないよ。昔は、もしかしたらそういう関係だったのかもしれないけど、記憶のない今の私には彼の気持ちは理解できないし」
理解できないからこそ一度距離を取るのだ。だがそれを側近の二人に言うことは出来ない。君たちの主人への気持ちを確かめるために手を切るだなんて。
「我が主あるじが語っていない以上、俺たちが何か言うことは出来ません。ですがドクター。どうぞ、お気を付け下さい。あなたが振り払ったのは、シルバーアッシュ家の男の手だということを」
「……忠告はありがたく受け取るよ」
まだ何か言いたそうな二人の視線をフェイスシールドで跳ね返していると、誘導担当の職員が待合室に入ってきた。離陸の準備が出来たのだろう。
「それじゃあ、二人とも気を付けて。無事にイェラグへ着くことを祈っているよ」
「はい、ドクターもお元気で」
「エンシア様を宜しくお願いします」
飛行装置に乗り込む二人を眺めながらドクターは物思いにふけった。カランドのマークが入ったこの機体も見納めだ。散々尽くしてくれた彼らを自分の個人的な感情で切り離すことに、罪悪感はある。もしかしなくても、軽率な決断だったかもしれない。去り際に言われたマッターホルンの言葉を思い返しながら飛び立つ飛行装置を見送る。
—どうぞ、お気を付け下さい
従者の彼が言うには少し奇妙なアドバイス。それはしっかりとドクターの心に、まるで楔のように残った。
「念のため、手を打っておくか」
その呟きを聞く者はここにいない。早速手元の端末を叩きながらドクターは待合室を後にした。
今や氷は割れて、粉々になっている。冷たい水と破片がロドスの周りに満ちていた。
ゴフェルと契約を交わしたとはいえ、まだ完全に信用したわけではない。それはドクターだけでなくゴフェル派のケルシーも同じ考えだった。共同研究を始めるのは少なくとも年が明けてからだと言い放つと代表の男は上機嫌で了承した。
「研修期間のようなものと考えれば妥当でしょう」
「当面は物資運搬のサポート業務が主になると思うが」
「構いませんとも」
まだ何も成果を上げていないのにやけに上機嫌だな、とドクターは訝しんだ。今後の利益がグラフで見えているのか、それともロドスがカランドと手を切ったことが嬉しいのか。男の笑顔からは読み取れなかった。
ゴフェル貿易との契約を開始したロドス・アイランドは緩やかに日常へと戻った。ロドスの職員たちが戸惑わないように、出向の規模はカランド貿易の時同様数人に留め、今後の業務内容によって人員を随時追加していくとの後出し説明にもゴフェルは文句を言わなかった。少しずつ、少しずつ空いた穴を戻していき、細々とした任務を共同でこなして、特に何も問題が起こらず三か月がたった。
望み通り、シルバーアッシュと距離をとることに成功したドクターだったが、三か月まるまる引き継ぎの業務に追われたせいもあり「離れたからこそ分かる」なんて乙女的思考に沈むことはついぞなかった。ロドスが寒冷地近くを運航している時に、降った雪を見て少し、思い出したくらい。そしてその時もそんなものか、と思ったものだった。
『研修期間』の終わりを迎えるのにふさわしい物資運搬任務が入ったのは年が明けてすぐのことだった。年明け早々大がかりな任務になりそうな予感に、執務室には朝から静かな緊張が満ちていた。
「運搬する物量もさることながら、ルートがなかなかに厄介だな」
そうだね、と秘書であるエリジウムが計画書をドクターに渡しながら答えた。
「ここを通るのは誰だって緊張するよ。何せ、トンネルを抜けたらそこはイェラグなんだから」
「依頼主のバッググラウンドは?」
「勿論、調査済みさ。イェラグの『
続けて書類を渡される。
「どれどれ……。『ロドスとの契約終了後、突如激化したイェラグ内部での小競り合いでカランド貿易は多少なりとも疲弊している。そのため、今回のイェラグ付近を対象とした物資運搬任務においてカランド貿易が関わっている可能性は低い』か。内部の小競り合いについての詳細はあるか?」
えっ、とエリジウムが意外そうな顔をした。
「そんなデリケートな話題、ドクター以外にこのロドスで知っている人居るの?」
居ないでしょ、と言われて一瞬言葉に詰まる。
「……彼からそういう話は特に聞いていないんだ」
「へぇ、慎重だったんだね。あれだけ親しそうだったから何でも話し合う仲だと思ってたよ」
勿論、エリジウムに悪気はない。それにおそらくロドスに籍を置く人間なら皆、彼と近しい意見を持っていたにちがいなかった。シルバーアッシュが身を捧げていたのはロドスにではなく、ドクターに捧げていたことを皆、理解している。そう、捧げられていた本人以外は。
「彼は……その、口下手でね。少なくとも君よりは」
あはは、とエリジウムが笑った。
「今の運航ルートは雪境ヒーラに近いから、依頼主の希望通りに出発出来るよ。どうする? 受ける?」
ドクターは「そうだなぁ」と呟いて椅子に深く座り直した。そして徐に今まで目を通していた書類の束を顔の上に乗せ、胸の前で手を組み足先をデスクの上に乗せる。行儀が悪い! とお育ちのよいオペレーターたちからは不評だったがこれはドクターが大事な決断をするときの癖だった。秘書を務めて長いエリジウムは勿論その癖を承知しているので、邪魔をしないようにコーヒーのお代わりを淹れに行く。おそらく、二杯分のお湯が沸く前にドクターの思考タイムは終わるだろうことも彼には分かっていた。
ドクターは暫し、思考の海に沈んだ。イェラグ付近の任務。カランド貿易は関係ないとはいえ、やはり気にしてしまう。この三か月、特に何も感じていなかったはずの胸がここにきてちくりと痛んだ。感じたのはほんの一瞬、冷たい、まるで氷の欠片が刺さったような痛み。
彼の故郷に近付くことは、どこか獣の巣穴に足を踏み入れるような感覚をドクターに与えた。別れ際のあの寒さを思い出すと今でも背筋が凍る。だが「離れて分かること」というのを実感出来ていない今、新たな変化が必要なのかもしれなかった。ロドスの舵取りを今のところ個人的な感情で執り行っていることに、自分でも少し驚く。こんな人間じゃなかったはずなのにという気持ちと、そもそも自分がどんな人間なのかも分からないじゃないか、という気持ちが静かにせめぎ合っていた。 湯が沸いたのか、執務室にコーヒーの香りが広がっていく。
「心は決まった?」
椅子から立ち上がったドクターにいつものマグカップを手渡しながらエリジウムが尋ねた。心、心か……とドクターはカップの中身を揺らした。むしろ、自分の心を確認するために決断したのかもしれない。
「ああ。今日の日付で、皆に通達してくれ」
重要任務の通達がロドス内に言い渡されたのはその日の午後のことだった。
きらきらと太陽の光を反射して輝く白。輸送車の窓から見える景色を眺めていると、ここが本当に
依頼主もそのあたりの事情を分かっているのか、今回の任務の目的地はイェラグの玄関口とされている都市の手前にある、小さな村だった。正式にはイェラグ領ではないらしく、特に入国検査もないらしい。イェラグの手前ギリギリまでよってさっと物資を届け、さっと帰る。それが今回の任務の概要だ。
「物量のせいで人手が居るとはいえ、第三部隊まで精鋭揃いなんて……。まるでレユニオンとの最後の戦いを思い出しますね……」
揺れでカタカタと音が鳴る薬の瓶たちを押さえながらミルラが言った。
「それよりすごいんじゃない? 別部隊とはいえ、ゴフェル貿易からの戦闘員も混ざってるし」
エリジウムがドクターにコーヒーの入ったカップを渡す。場所が変わっても秘書の仕事は変わらない。
「今のところ通信状態も安定してるし、順調にいけば夜にはロドスのあったかいベッドで寝られるよ」
順調にいけば。エリジウムのその言葉に縋るようにドクターは湯気の立つカップを受け取った。これほどの大所帯を率いるのは久々で、レユニオンとの戦いをくぐり抜けたドクターであっても緊張は隠せない。そろそろトンネルに入る、と通信が入りドクターの表情が更に硬くなった。最も顔はいつものようにシールドで覆われているため、その顔色を指摘するものはいない。それでも纏う雰囲気がぴりついているのは分かるのか、周りのオペレーターたちは自分の仕事をしつつもそっとドクターを見守っていた。
トンネルの中は通信が不安定になる。何かを仕掛けるには絶好の場所だ。勿論、カランド貿易が私怨で何かを仕掛けてくるとは思っていない。それよりも、大量の物資を乗せているので賊に狙われる可能性の方が高かった。大きな山を通るトンネルは抜けるまで十分はかかる。十分もあれば色々なことが出来るだろう。
窓の外が一面の白から、暗い石壁の色になった。カップを手に微動だにしなくなったドクターから視線を外して、周りは各々の仕事に集中し始める。車内には車輪が擦れる音とオペレーターたちが武器の手入れをする音のみが響いていた。
ガタン、ガタン……
何かあったらすぐに頭の回路が動くよう、ドクターは気を張りつめさせていた。十分がやけに長く感じる。車両に乗せている部隊の編成を脳内で何度も確認しては、戦法のストックを溜めていく。襲撃を受けた場合の対応を数手先まで考え、練った。
—もうすぐ、もうすぐトンネルを抜けるはずだ。どうかこのまま何事もなく……
ぱっと窓の景色が再び白に染まった。暫くののち、通信が安定したのか後方支援部からのアナウンスが入る。
『全車両トンネルを抜けました!』
ほっ、と車内に安堵の息が満ちる。ドクターもひとつ息を吐きだしてからようやくコーヒーに口をつけた。温くなったそれで唇を湿らせて、通信チャンネルを開く。
「村に着くまで油断は禁物だ。何か怪しいものがあったらすぐに報告してくれ」
『はい、ドクター! ……あっ』
「どうした?」
通信担当の背後でざわめく声がする。
『ドクター、まだ少し先ですが線路上に倒木が』
予想していたトラブルとは違っていた。このあたりは吹雪がひどいらしいからそのせいで線路に倒れたのだろうか。
「木の手前で安全に止まれるよう調整してブレーキをかけてくれ。待ち伏せの可能性もあるから油断するな」
『了解!』
近くで見ると倒木は立派なもので、広い線路を悠々と横断していた。後方からの襲撃を警戒して、ゴフェル貿易の戦闘員たちに車内で待機するよう命じると、ドクターは輸送車から降り立った。さっと周りを見渡す。このあたりはトンネルの設置に伴い開墾されているらしく森林はない。このサイズの木が風の力だけでここまで飛ばされるだろうか? 竜巻レベルならあり得るかもしれない。だが、このあたりに天災はないのだから竜巻が起こる可能性は低いだろう。
人為的。
その単語が脳裏に浮かんでドクターはチャンネルをオープンにして大きな声で叫んだ。
「総員、戦闘に備えろ!」
車両から降りていたオペレーターたちに緊張が走る。全員が即座に武器に手をかけた。
「賊の可能性が高い! 物資を守れ!」
「その必要はない」
静かな大地に、よく通るビロードのような響きの低い声が届いた。ドクターの喉がヒュッと鳴る。声を認識した耳が微かに痺れ、心臓がどくんと動いた。
「ドクター、あそこよ。舗装されている山の中腹」
メテオが元
どくどくと鼓動を打つ胸元をぎゅうと押さえながら、ドクターは言われた場所に目を向けた。線路の脇は切り立った山に囲まれており、土砂崩れを防ぐためか地面から半分ほどは舗装材で固められていた。線路を丁度見下ろせる位置にある中腹、まるで劇場にあるボックス席のように少し飛び出た場所。そこに声の主は居た。
「シルバーアッシュ……」
風で、黒い外套がはためいている。数か月ぶりに目にした男は変わらず威風堂々としており、雪山を背に立つその姿はまさにイェラグで領地を持つ男に相応しい雄々しさだった。
もうひとつ心臓が大きく高鳴る。離れている時は感じなかったのに、久々に目にするとやけに感情が揺れ動いて仕方ない。そんな自分にドクターは僅かに動揺した。今ほどフェイスシールドのありがたみを感じたことはない。でなければ揺れ動く瞳や微かに震える唇を見られてしまっていただろう。
「久しぶりだな。変わりはないか」
流石にもう盟友とは呼びかけてくれないのか。勿論そうなるようにしたのは他でもない自分なので、口には出さない。だが、少しの寂しさを感じたのも事実だった。ドクターは大げさに肩をすくめてからシルバーアッシュに向かって声を張り上げた。
「今のところは!」
ドクターからの含みをもたせた返事にシルバーアッシュの纏う空気がほんの少し変わる。だがそれに気付いたのはおそらくドクターだけだろう。
「線路で立ち往生は危険だぞ」
「まったくだ! 丁度いい、この木をどかすのを手伝ってくれないか! 君なら出来るだろう?」
これを置いたのは君たちカランドなのだから。その気持ちを視線に乗せて見上げる。黒色が更に激しくはためいた。そのおかげでシルバーアッシュの背後にクーリエとマッターホルンが控えているのが見えて、ドクターはシールドの奥で目を細めた。
「……いいだろう」
シルバーアッシュがひと飛びで線路へ降り立つ。従者二人も後に続いた。メテオのつがえている矢先を人差し指で地面に下げさせると、意図を察したのか彼女は後ずさった。薄氷を渡るような緊張感があたりに満ちる。雪を踏みしめながら、彼はゆっくりとドクターの方へと近付いた。倒木を背にする形でドクターと向かい合うと、こつんと杖が鳴り彼が歩みを止めたことを知らせた。
「君のことだからもう調べてあるんだろうけど、私たちイェラグに用があるわけじゃないんだ。その手前の村からの物資運搬依頼でね。終わったらすぐに回れ右してロドスに帰る」
「ほう? 折角ここまで来たのにか? 遠慮するな。ゆっくりしていくといい」
「はは、イェラグ式おもてなしに興味がないわけじゃないが。今回は遠慮しておくよ」
「つれないな」
正面から飛んでくる銀色の視線は氷のように冷たい。それは目の前の男が自分を許していないことをありありと示していた。執務室で別れを告げたときと同じ冷気が再び足元からのぼってくる。決して靴裏にこびりつく雪からではないその冷たさにドクターが微かに身震いした。
傍から見ればシルバーアッシュの様子はロドスに籍を置いていたころと変わらないと思うだろう。だが、ドクターにはまるで別人のようにしか思えなかった。身に纏っているものも、手にしている仕込み杖も、鎖骨まで垂れている民族的な髪飾りも以前と同じなのに。そこまで視線でたどったあと、ドクターはふと一つだけ違いがあることに気付いた。
テンジンが、いない。
「……っ! 総員、上からの強襲に気をつけろ!」
「遅いぞ」
ピ――ッと甲高い鳴き声が響く。仲間だったころは頼もしい音だったそれが、今ではひどく恐ろしいものに聞こえた。その声が合図であったかのように、先程までシルバーアッシュたちがいた中腹で大きな爆発が起こった。地面が揺れるほどの衝撃と音にオペレーターたちが反射的に武器を構える。ドクターが慌てて叫んだ。
「陽動だ! 反撃するな! 撃てばそれこそ……」
カランドとロドスの戦いが始まってしまう。おそらくそれこそがシルバーアッシュの狙いだろう。そうすればあくまで、ロドスから先に始めた、と言えるからだ。
ドォン、とまた爆発音が鳴った。線路からもっと近い場所での爆発に、緊張がより高まる。だが、オペレーターたちは忠実にドクターの命令を守った。
「いい読みだな。だが……」
言葉の合間、更に大きな爆発が今度は側面に聳える山の頂上付近で起こった。
「お前は、この土地を知らなすぎる」
「何だって?」
シルバーアッシュの言葉の意味を探る間もなく、今度は爆発音とは違う、地響きのようなものがあたりを包んだ。何か、大きなものが静かに動いているような、そんな気配。
「ドクター! 横の山から雪崩が!」
安全な場所へ逃がそうとメテオがドクターの腕をつかもうとした瞬間、シルバーアッシュが動いた。軽やかに後方へ飛ぶと背後に鎮座していた倒木の裏側に回り込む。そして、仕込み杖を抜いた。空気が銀色に煌めく。
ぞっ、とドクターの背を寒気が走っていく。今まで何度も、何度も見た、強烈な銀の閃光が目の前で弾けた。
「総員、回避‼」
至近距離から剣圧を受けて巨大な倒木はばらばらになった。木片が器用にドクターを避け、その横を通り抜ける。オペレーターたちは衝撃と木片をかわすために方々に散り、後方に追いやられた。
彼が自分たちに向かって『真銀斬』を撃った。その事実に打ちのめされながらも、振り返る。目を凝らすが、被害の度合いは分からない。
「ドクター!」
まだ危機は脱していなかった。轟音と共に横から迫りくる雪崩が残っている。一度は追いやられた後方から、真っ先に駆け出したのはグラベルだった。雪に足を取られながらも必死に駆け寄る。ドクターまであと十歩足らずのところまで来ると、シルバーアッシュが再度、剣を構えた。
—二撃目が来る
ドクターは手でグラベルの動きを制した。忠実な騎士が思わず足を止める。横から押し寄せる雪崩はもうすぐそこまで迫っていた。
「グラベル、君の言うとおりだったよ」
こんな状況で何を、と問うような視線。それをシールドの覆いで受け止めながらドクターが続けた。
「離れて、分かることもある」
「ドクター、だめよ……」
言葉の意図は読めなくとも、何かを決断したときの様子は分かる。傍らでその瞬間を幾度も見てきたグラベルが察して、首を横に振った。
「剣をおさめてくれ、シルバーアッシュ。用があるのは私だけだろう?」
「抵抗しなければ、お前を傷つけるつもりはない」
「頼む。オペレーターたちが傷ついたら、同じだけ私の心も傷つく」
静かに剣が杖の中におさまった。縁ふちが燃え上がった瞳はずっとドクターを、ドクターだけを見ている。心の奥底まで見透かされそうな強烈な視線を受けて、ドクターは自分の中にあるものと対峙した。再会を予期した頃から感じていた胸の痛みだ。彼は自分に何も残していかなかったと思っていたがそうではない。確かに、彼は自分の心に残していたのだ。溶けない、氷の欠片を。その存在に、再会した今、彼の言葉と、視線で気付かされてしまった。
だが何故こんなにも彼に特別な感情を抱くのだろう? ドクターが生来持つ好奇心がむくむくと膨らんでいった。この男は一体自分の何だ。知るためにはどうすればいい?
一度は離れた。なら、今度は、近づくしかない。そう、獣の、懐に入るのだ。
おそらくこの雪崩は自分とロドスを分断するためのものだろう。ここでわざと負けることが何を意味するのかは分かっている。イェラグの国境付近でけしかけてきたということは、彼の目的は明らかだ。自分の土地に誘い込もうとしている。
ちょうどいいじゃないか、とドクターは心中で笑った。自分から始めたことだ。このゲームの責任は自分がとる。アーミヤたちにも約束した。おそらくとても、沢山、心配はかけてしまうだろうが。
駄目押しの爆発音が響く。勢いを増した雪崩が視界の端に映った。
「山ごと崩れてます! 皆下がって!」
「まだドクターが!」
「グラベル、ダメだよ! こっちへ下がってきて!」
このままではグラベルが雪崩に巻き込まれる。ドクターは振り返って叫んだ。
「私は大丈夫だ! 君たちはロドスに戻って、そして……」
「ドクター‼」
すさまじい突風が吹き、勢いでフェイスシールドは彼方へ飛んで行った。轟音と白く煙る視界。その中でキラッと金属が光を反射した。見覚えのある登攀用具がグラベルの腰に巻きつく。すんでのところで彼女は後方に引っ張られていった。表情は見えなかった。見えなくてよかったのかもしれない。
計算しつくされた雪崩はドクターの後ろを綺麗に襲った。個人的なことに巻き込んでしまった罪悪感に襲われながらドクターは目の前の雪壁を見上げた。うず高く積もった白い壁。分厚いそれは音を遮断していたが、向こう側から微かに生存確認の点呼の声が聞こえる。
静かな場所にばさばさっと羽音が響いた。役目を終えたテンジンが主人の肩に舞い降りる。その瞳も主同様いつもより厳しい金色だった。
「さて、私から離れた罪は重いぞ」
背後からかけられた声にドクターが渇いた笑いを返す。
「どうすれば償えるのかな」
「簡単なことだ。逆のことをすればいい」
まるで裁判官から判決を受けたように、ドクターは静かに目を伏せた。
・・・・
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