Mr.Ringholder
来客予定のない、珍しく静かな執務室でドクターはおもむろにピンと親指を弾いた。空中にポーンと飛んだ銀色がくるくると宙で回転し、重力に従ってまっすぐ、まっすぐ落ちてくる。手を差し出さなければこの小さな金属はこのまま落下するだろう。そして滑りやすいロドスの床を転がって、家具の隙間に入り込み、容易に取れないところへ入り込むかもしれない。
回転する輪がキラリと光を反射した。はっ、と慌てて手を突き出す。手のひらに感じた金属の冷たさ。その無機質な温度がなんとか間に合ったことを伝えていた。ドクターはお世辞にも反射神経がいいとは言えないが、幸いこの指輪を落として無くすという顛末には至らなかった。
ほっ、と安堵の息を漏らしながらそのままそれを掌の中に握りこむ。大事にしたいのか大事にしたくないのかよく分からない、銀の指輪。それを所有することになった経緯をドクターはぼんやりと思い出した。
ロドスとカランドの共同作戦という名を冠した潜入捜査は表面上はつつがなく終わった。その後の両陣営にも特に変わりはない。だが実際のところドクター本人にはいくつかの変化が生まれていた。
まず、一つ。ドクターを表す単語が増えた。「ドクター」「ロドスの頭脳」「戦術指揮官」。今まで使われてきたそれらに新しく加わったもの。それが「既婚者」だ。今手の中におさめているこの指輪によってドクターは「既婚者」という単語があてはまるようになったのだ。
まんまと絡め取られてシルバーアッシュと結婚してしまったドクターの名前は、今や片側が「シルバーアッシュ」になっている。そしてこれは二つ目の変化でもあった。別姓でもいいじゃないか、と後でやんわりと伝えてみたが恋人をあらゆる方法で己の近くで縛りたい男―とドクターは思っている―には夫夫別姓のメリットをプレゼンしたところでなんの意味もなかった。そも、賢い男なのでメリットを理解していないはずがない。全て分かった上で名前ごと己のものにしたいのだ。なんだかんだ付き合ってそこそこの長さになるので、その気持ちを理解したドクターが折れる形で「シルバーアッシュ」になることを了承した。
理解した上で変更したものの、シルバーアッシュさん、と呼ばれたら自分が呼ばれている可能性があるなんて妙な気分だ、というのが正直なところだった。
とは言ってもドクターのフルネームを目にする機会がないロドスのほとんどのスタッフは、ドクターの苗字が変わってしまったことを知らない。シルバーアッシュとドクターが作戦のため嘘の結婚式をあげた、ということはロドス社員の殆どが知っていることだったが、実はあの結婚式でサインした証明書が本物で、敬愛するドクターがカランド貿易社長の籍に入ってしまったことを知っているのは一部の精鋭オペレーターたちだけだ。それもケルシーによって箝口令が敷かれたため、その事実が広まることはなく今日に至っている。
あの時投げ返されて手元に戻ってきた銀の指輪。シルバーアッシュの独占欲をよくよく理解しているドクターだからこそ、この指輪の扱い方には悩んだ。
『外すことも返すことも二度と許さない』
あの場で一通りシルバーアッシュに文句を言った後、投げ返された指輪を放心状態で眺めていたドクターにシルバーアッシュはそう言い放った。どんな金属よりも重いそれはロドスに戻った後もドクターをじくじくと苦しめた。言いつけ通り指輪を左手の薬指にはめたら、広いロドスの隅々にまであらゆる噂が飛び交うことは想像に難くない。だからドクターはあの日以降、指輪を身に着けず左の胸ポケットの奥にしまっている。結婚証明書も最重要機密としてパスワード付き金庫に突っ込んだ。指輪も金庫に入れないのは、シルバーアッシュの来訪に合わせて左手の薬指にこっそりはめて、さも「毎日つけてますよ」という顔をするためだ。突然の来訪が多い男だが、執務室に直で来ることが殆どなので今のところなんとかバレずにやり過ごせていた。
(別に、別姓を却下されたあてつけなわけじゃない。オンオフの切り替えっていうか……そもそも生活拠点そのものが『職場』なわけだし。それに……こんな幸せの象徴みたいなのを指揮官がつけてるのはおかしいだろう)
誰に向かっての言い訳か分からないことを心中で呟きながら、ドクターはピン、と懲りずにもう一度指輪を弾いた。銀輪が再び空に飛び上がったその瞬間。コンコンというノックの音が執務室に響いた。
「ドクター、失礼します。午後のブリーフィングの件で……」
「ぅわっ」
このロドスでドクターの返事を待たずノックと同時に入室してくる人物は限られている。ロドスのCEOであるアーミヤもその一人だ。
アーミヤやケルシーの来訪は緊急性の高い案件を抱えていることが多いため、ドクターも通常それを是としている。だが、今はタイミングが悪かった。
一瞬の判断の遅れが、カツーン!という金属と床がぶつかる音になって執務室に反響する。そのまま輪っかはころころと転がり、壁に備え付けられた棚の隙間に消えていった。
やってしまった、とフェイスシールドの下でドクターが渋面を作る。アーミヤがいなければ盛大に舌打ちをしていただろう。珍しく慌てた様子のドクターを見てアーミヤが緩く首を傾げた。
「何か落としたんですか?」
「ええと、うん。まぁ、大したものじゃないから後でとるよ」
「そこの隙間ですか?私ならドクターより手が小さいので取りやすいと思います」
「いや、アーミヤにそんなことさせられない」
掃除の行き届いていないだろう家具の隙間に、この小さな手を突っ込ませたと知られたらケルシーに殺される未来は確定だ。しかも自分の結婚指輪を拾わせる、なんて。
「ですが、まだ見えている今取ってしまった方がいいですよ。ロドスは常に移動していますから振動でもっと奥や、見えないところに転がってしまうかもしれません。ロドス内の家具は殆どが固定済ですから、裏に入り込んでしまったら取るのが大変だと思います」
確かに、アーミヤの言うことも最もだ。固定された家具を外すため道具片手に嬉々として現れそうなオペレーターたちが何人も脳裏に浮かぶ。そんな大事おおごとになるのはごめんだった。ならまだ、アーミヤひとりに頼むほうがいいだろう。
気恥ずかしさとともに、じゃあ、頼むよとドクターが言うと焦げ茶の耳が嬉しそうにピンと跳ねた。
「……大したものじゃない、ですか」
小さな掌の上で鈍く輝く銀輪。これが何か察した少女のどこか咎めるような声色にドクターは、うっ、と言葉に詰まった。
「ドクター。これは「今」のドクターが何よりも大事にしなくてはいけないものではないですか?」
「……いや、私が何よりも大事なのはロドスだよ。ロドスにいる全員だ」
ドクターとして、常にその気持ちは持っている。過去の自分がどうだったかは分からないが、目覚めてからみんなに必要とされ頼られ、苦楽を共にし怒涛の日々を過ごしてきた今、心から出た言葉だった。
「ドクター。私は誰かが犠牲になる世界は間違ってると思うんです。そしてその「誰か」にはドクターも当てはまるんですよ」
まっすぐな視線がフェイスシールド越しにドクターの瞳を射抜いた。
「私は……私が大好きなドクターにもちゃんと幸せになってもらいたいんです。だからドクターも自分の幸せを考えることを、諦めないで下さい」
「……ありがとう。テラから病が消え去って、天災も無くすことが出来て、皆が幸せになったらゆっくり考えるよ」
大人げないかわし方しか出来ない自分が嫌だと思いつつも、ドクターは答えた。どうせ目の前の少女には全てバレている。人の心がよく分かる優しい子だから。
「それがドクターの原動力になっているならいいのですが……」
ゆら、と焦げ茶の耳が揺れる。指輪についた汚れを袖口で拭うとアーミヤはドクターに指輪を渡した。手の内に戻ってきたそれをドクターがぎゅっと握りこむ。
「その指輪は、ドクターの幸福の証ではないのですか?」
「うーん。どうだろう。言葉にするのは難しいな」
「せめて、私がつけている指輪たちとは、違った意味を持っていて欲しいです」
少し悲しそうな少女の微笑みにドクターは僅かにたじろぎ、そして素直になれないでいた自分をほんの少し反省した。少女のつけている指輪の重さは自分のそれとはまったく違うのだ。今ここにある幸福を享受することも大事である、とアーミヤの笑みがドクターに教えていた。
「……戦術指揮官が結婚指輪してるの、場違いじゃないか?」
いいえ、と首が横に振られる。
「こんな大地でも幸せが傍にあると、感じられますから」
「そういうもんか……」
「はい。だからドクターが幸せなら、気にせずその指輪を付けていて欲しいです。勿論プライベートなことですから強制はしませんが」
そう言いながら持ってきた資料をデスクの上に置いたアーミヤはもういつものアーミヤだった。
「……少し、考えてみるよ。指輪拾ってくれてありがとうアーミヤ」
ドクターの言葉に今度は嬉しそうに笑うとアーミヤは執務室を出ていった。再び一人になった室内でドクターはその銀色をもう一度しっかりと手の中に握りこんだ。
「無理に見送らずとも、寝ていればいいだろう」
寝ぼけ眼で格納庫までついてきたドクターを振り返ってシルバーアッシュが言った。昨夜、目の前の夫と濃厚な夜を過ごしたドクターは勿論寝不足で、散々揺さぶられた体は動きが悪くまるで枯れ枝のようになっている。離陸準備のためにあちらこちらの隔壁が開き始めると、突風にあおられてドクターの細い体がぐらりと揺れた。察したシルバーアッシュがその大きな体で風よけを務める。確かにこんな状態で無理に見送りをするもんじゃない。それはドクター自身もよく分かっていることだ。
「でも君、私が見送ると嬉しそうにするじゃないか」
だから結婚してからはどんなに疲れていても見送りをするようにしているのだ。一緒に居る時間を少しでも伸ばしたい気持ちもあるが。
「……」
ゆらゆらと銀毛の尾が揺れた。風のせいではない。これは少しバツが悪いときの動きだった。バレてるんだよという気持ちを込めてドクターが揺れる尾を手に取る。誘導担当のスタッフは今居ないからこれくらいの触れ合いなら許されるだろう。
ふわふわの銀毛に埋まる指。そこできらりと光る指輪を見てシルバーアッシュが片眉を上げた。
「……今日も外すのか」
「え?」
「いつも私が飛行装置に乗りこむ時に、
うっ、と呻いてドクターは尻尾から手を放した。今度はドクターがバツが悪くなる番だった。見送り時、いつもドクターはシルバーアッシュが飛行装置のタラップを上り、機内に入るか入らないかのところでこっそり指輪を外していたのだが、どうやらバレていたらしい。
「もしかして背中に目がある?」
「ああ」
冗談で返してくるということは、そこまで怒ってはいないようだ。昨夜の頑張りが効いているのかもしれない。
「外すなって言われてたけど、その……ごめん」
素直に謝罪するドクターをシルバーアッシュが静かに見つめた。
「これをロドスで着け続けることの意味を色々考えちゃってさ」
そもそもケルシーはあの日のことについて箝口令を敷いていた。それはつまり関係を明らかにするな、ということだ。ケルシーの意図を酌んだドクターは、この存在がロドスにとって不利益になるなら、と指輪を胸ポケットの奥に押し込むことにしたのだ。シルバーアッシュがこの指輪に込める想いを知っていたのにも関わらず。
小さい声量で返されたドクターの言葉にシルバーアッシュは微かに口の端を上げた。
「お前ならそうするだろうと思っていた」
「……怒ってないのか?」
「以前までの私なら、そうだな。二、三の仕置きを与えるくらいはしたかもしれないが」
ひっとドクターが一歩後退る。反射的に距離を取ろうとするその細い腰にすかさずシルバーアッシュの手がまわった。ぐいっと引き寄せられて至近距離からまっすぐ、熱っぽい視線がぶつけられる。
「今の私は違う。お前が抱えている葛藤ごと愛すると決めたからな」
どうやら何かを決意していたのは自分だけではなかったらしい。結婚とは相互理解を続けていくこと。雑誌だったか本だったか、それとも既婚のオペレーターの誰かが言っていた言葉だったか。ドクターはその文言をふと思い出した。じんわりと心に温かいものが広がっていく。
おもむろにドクターは左手の甲をシルバーアッシュの方に向けた。薬指におさまった銀の輪をしっかりと見せながら、にやりと笑みを零す。
「それは助かる。まぁ、でも……今日からはこれ、外さないって決めたんだけどね」
予想外の言葉だったのかシルバーアッシュが珍しく目を見開いた。羽獣が豆鉄砲を食らったような少し幼い表情はドクターの笑いを誘うには充分だった。春の匂いのするような朗らかな笑い声。それがふわりと風に乗って高い空に巻き上げられていった。
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