見えない
凍傷
AM9:00 ロドス艦内 ドクターの執務室。ドクターが『イェラグの視察』から帰還して三日。
「ドクター、おはよう。どう? 戻ってきてからちゃんと寝られてる?」
「ああ。やっぱりロドスのベッドは最高だよ。硬さがなんとも言えない」
朝から秘書の肩書きに相応しくない陽気な笑い声を上げるリーベリに、ドクターは「さて」と口にしてファイルを二つ手渡した。
「エリジウム、早速で悪いけどこれをアーミヤとケルシーに届けてきてくれないか」
「勿論喜んで。中は見てもいいの?」
「構わない」
ドクターからの許可を得てエリジウムは片方のファイルを脇で挟み、もう一つを開いた。最初のページからすでにびっしりと文字で埋まっているのを見て、うへぇと眉を顰める。
「『基地B4フロア拡張計画についての提案』って……なになに? 戻って来たばかりなのにもうこんな大がかりな仕事から始めるの?」
「そう大袈裟なことでもないさ。いくつか部屋を増やすだけだよ。ちょっと試したい事が出来てね」
「へえ。それはイェラグ滞在で得たインスピレーション?」
「……まぁ、そんなところだよ」
誤魔化されたことに長身のリーベリは気付いていたが、ドクターの秘書をやっていればこんなことは日常茶飯事だ。むしろこうやって誤魔化されることすら、懐かしい。そんなちょっとしたことでドクターがロドスに帰ってきたことを実感しながら、彼は執務室を後にした。
ドクターはロドスの戦術指揮官だ。原則、ロドスから離れることはない。例えあっても数日程度。だが、ついこの間までとある事情でロドスを暫く留守にしていた。雪境ヒーラの地にある、厳かな山々に囲まれた国、イェラグに滞在していたのだ。
ドクターがイェラグでどのように過ごしていたかなんて、ロドスの誰も、知らない。表向きは、やや強引にイェラグへ「招待」され「
ぶるっとドクターは体を震わせた。熱いのに寒い。あの男の前で幾度となくこの矛盾した感覚に襲われた。
—ピコン。
—ピコン。ピコン。
新着メールの通知音が続けざまに執務室に響いた。画面上には大量の未読メール。デスク上には今にも崩れそうな確認待ちの書類で出来たタワー。長期間ロドスを離れていたせいでやることは山積している。だが、少し数が多いもののこれらはいつも通りの業務で、いつも通りの景色だ。唯一いつも通りでないのは、自分の体だけ。早く手を、頭を動かさなくてはならないのに、うまくいかない。
はぁ、と熱い息が口から漏れた。脳は冷えているのだから問題なく「ドクター」として働けるはずだ。だが、体は、肉体は燻ったままで、まるで暖炉の残り火のように体のあちこちに熱が残っている。愛された記録が、思い出が、つま先から頭のてっぺんまで散っているせいだ。目をぎゅっと瞑って空を仰ぐ。瞼の裏で自分をこんな体にした男が不敵に笑っていた。
(ああ、くそ。重症だ)
離れてまだ数日たらず。これでは先が思いやられる。ドクターはもう一度ぶるりと体を震わせた。
戻ってきたドクターがどうやら本調子でないと察したオペレーターたちは代わる代わる色々なものを差し入れしにきた。慣れない土地での生活が原因だと思っているのだろう。エナジードリンク、漢方薬、怪しげなアンプル、消化の良さそうな軽食etc……。貢物の山に感謝しつつも—中には使用を躊躇う色合いのものもあったが—それらが自分の熱をおさめるものではないことをドクターは分かっていた。だが勿論誰にも言えない。
残火がもたらす熱に苛まれながらも、なんとか今日の業務を終わらせると、ドクターは珍しく自室の浴室へと直行した。服を脱ぎ落とすと、シャワーを勢いよく出して頭から冷水をかぶる。冷たい飛沫が肌に当たるたび、体は冷えるのに敏感になった肌は彼の指の動きを思い出して燻った。それはそうだ。あれだけ念入りに求められ開かれたのだから。
寒いのに熱い。この矛盾からどうやっても逃れられないらしい。それでもどうにかして押し寄せる熱から逃れたくて、ドクターはそっと陰茎に手を添えた。
(まさか自分で慰めるようになるなんて)
そもそもドクターは性欲が薄い。いや、薄かった。今では過去形だ。石棺で目覚めてから毎日を生きるのに精いっぱいなのもあり、自慰に耽ることなどなかったのだ。それが今、つたない動きでゆるく勃ちあがっているペニスを慰めている。燻る熱を絞り出したい、その一心で。
「……ふっ、はぁ……」
亀頭からカリ首をおぼつかない手つきで擦っていると、ふとある言葉が思い出された。
『お前は、中に私の精を叩きつけられてようやく自分も熱を放つことが出来るのだ』
ビロードのような艶やかな声が脳内で反響して、手を止める。
(そうだ……そもそも慰める場所が違う)
いくらここを擦ったって、自分の手では射精できないのだ。後孔を使い、熱を受け入れることで途方もない快感と充足感を得られるのだと、あの男にそう教えられてしまった。意識し始めたら途端に、後ろが寂しくなる。
ドクターは暫し考え込んだ後、そろりと手を後ろにやった。狭間に指を差し入れて、以前まではただの排泄器官だったところに触れる。そこは慎ましやかに閉じていて、性器に変貌しているとは思えなかった。だが、確かに自分のここは変えられてしまっているのだ。きゅっと唇に力を入れて、恐る恐る
(あんまりじゃないか)
自分がやってる行為に虚しさを感じてドクターはへたり込んだ。ただでさえ、自分で慰めることは我に返ったときが一番つらいのに。冷え切った床のおかげでみるみるうちに理性が回復していく。ゆるく勃ちあがりかけていたドクターのペニスはすっかり平常運転になっていた。だが、体はもやもやとした燻りを抱えている。どうにも出来ない熱を抱えたままドクターはシャワーを浴び終えた。
部屋に戻るとシルバーアッシュからメールが入っていた。まるで今の出来事を見ていたかのようだ、とギクリとしながらメールを開く。
『調子はどうだ』
よくない。いいわけがない。ふざけるな。一行目からけんか腰の脳内返信をしながらドクターは文字を目で追った。
『サルゴンは暑いだろう。雪山が恋しくならないか』
確かに今ロドスはサルゴン地域を走行中だ。ドクターをピックアップ後、一刻も早くイェラグからドクターを引き離そうとでもいうように高速でロドスは南下した。やや強引な針路変更だったが、いつもよりも厳しい顔でそれを言い渡したケルシーに異を唱えるものなんて、このロドスには存在しない。雪山と氷から離れ、熱波と砂を感じる対極の土地へロドスは全速前進した。そして無事サルゴンに着いた今は砂原を緩やかに走行中である。
甲板に出ればあっという間に砂で汚れる地域。フェイスシールドもものの数秒で砂まみれになるので、専用のワイパーをつけてもらえないかクロージャに頼みたいほどだ。服の溝にも溜まるから艦内に戻る前にあちこちはたかないと清掃担当に怒られる。はたいてもはたいても出てくるそれが鬱陶しく、これが雪なら溶けて水になるだけなのにと思うことは何度もあった。着込んでいるドクターにとっては気温の高さも敵だ。寒さは服を重ねればどうとでもなるが暑さは例え全裸になっても解決しない。
総合すると個人的には暑さよりも寒さの方が好ましい。だから彼の問いには「はい」で返すだろう。だが、あの塔に戻りたいかと聞かれたら答えは「いいえ」だ。「*イェラグスラング*」もおまけでつけるかもしれない。
『長くお前を独り占めしたからな。暫く私から会いに行くことは遠慮しよう。もっとも、お前が寂しいと言うなら話は別だが』
そちらから求めてこいと、そう言うのだこの男は。「ロドス製薬のドクター」が「カランド貿易のシルバーアッシュ」を求める姿が見たいのだろう。今、ドクターが燻る熱に苦しんでいることも見透かした上で。
勿論、肉体だけが快楽の鎖で縛られてるわけではない。心だって、彼を求めている。だが、ドクターが素直に「寂しいからロドスに来てくれ」なんて言うわけがないことも彼は分かっているのだ。だから、心よりも分かりやすい肉欲で求めてこいと、誘導されている。意地の悪い手繰り寄せだったが、既に彼のことを深く理解したドクターにとって、気分を害すほどのことではなかった。
『お前が抱えている問題を解決できるのは、この私のほかにはいないのだからな』
最後の一文まで目を通すとドクターは「ははっ」と笑った。確かに。今の状態を解決できるのは彼しかいない。だが、彼のことを理解した今だとよく分かる。
「寂しいって正直に言えばいいのに」
あの滞在を経て、変えられたのは自分の体だけだと思っていた。だが、おそらく彼の体にも付いているのだ。ジクジクとした甘い痛みをもたらす傷が。互いの立場を考えれば常に共に在ることは出来ない。だから、会えた時に傷を舐め合って耐えるしかないのだ。
「まあいいさ。今回も、私が折れてあげるよ」
だから、早くこちらへ来てこの傷を舐めてくれ。未だ燻る体を揺らしながら、ドクターはキーボードを叩く。送るのはいくつかの文字列だけ。これで充分。
さて、何時間で彼は来てくれるだろうか。この砂原が凍るほどの冷気を伴ってくるのか、はたまた熱波に負けない熱を抱えてやってくるのか。もしくは、その両方か。
送ったばかりの返信メールに開封済マークが付いた。心臓が期待に打ち震える。
「もう一度、シャワー浴びるかな……」
そう呟きながらドクターが浴室へ向かった数分後、ピコンというメールの通知音が室内に響いたのだった。
メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで