あゝ我が愛しの頭蓋骨よ

 闇が満ちる少し前に輝く星。夜の訪れを表す明星。その星を司る神の名を、自らのコードネームにしている青年がロドスには居る。だが彼はその名に似合わず、夜を恐れていた。
 正しくは「静かな夜」だ。静けさは、脳髄の奥で響く声たちを増幅させる。そして重なる声たちに飲み込まれて己を見失いそうになるのだ。だから彼は今日も執務室の扉を叩きに行く。あの部屋の主は夜遅くまで起きていることが多いから、「静かな夜」をやり過ごすには最も適した場所だった。
 廊下の端に落ちる影に怯えながら彼は宿舎から執務室へと歩いた。ロドスは夜も眠らない。だが、それでもやはり深夜になれば喧騒はなりを潜める。ああ、なんて静かで、恐ろしい時間だろう。心中で嘆きながら彼は縋りつくように執務室の扉にもたれかかった。ドクターのポリシーにより日中、執務室の鍵は開いている。だが、夜は流石に護衛もいないからと施錠されていた。ゆえに、彼は嘆願する。ここを開けて欲しいと。中に入れて欲しいと。そんな気持ちを込めて手の甲を数度ぶつけた。
「シャレム、入っておいで」
 引きずるような独特のノック音でドクターは来訪者が誰なのかすぐに察してロックを解除した。静寂しじまを穏やかな声が裂く。その音を追いかけるようにシャレムは部屋の中に体を滑り込ませた。
「ドクター。申し訳ありません、今夜も……よろしいでしょうか」
 いいよ、とまた柔らかな声がシャレムの耳を慰める。鼓膜が震える度に、ひとつ、またひとつと頭の奥で響く声たちが消えていくようだった。別の自分たちが遠のいていく。いや、もしくは本当の自分なのかもしれない。でも、そんなことは今どうでもよかった。シャレムはほっと息をついて、執務室のソファへ腰かけた。
 ドクターが端末を動かす音、コーヒーを啜る音、書類を捲る音、たまの咳払い、それらの音に身を任せながら目を閉じる。ここでは自分とドクター以外誰もいない。ドクターがもたらす音だけがこの部屋で響いている。それがシャレムにとっては限りなく平穏で幸福なことだった。
 さざ波のような眠気が押し寄せてきてシャレムはもう一度息を吐いた。ようやく、眠れる。


 暫くは夢も優しいものだった。だが、段々と不穏な展開になる。夢の中で自分の息が荒くなっていくのをシャレムは感じていた。自分の口が何かを叫んでいるのも。こうなると夢の最後は決まっている。自分が舞台から飛び降りて、それで終わりだ。
 びくん、と大きく体を揺らしてからシャレムは目を開けた。体全体にじっとりとした汗をかいている。薄紫色の髪の毛を白磁の頬に張り付かせながら、彼は短い眠りから完全に目覚めた。寝入りは良かったのにどうして、と首を緩慢に傾ける。そしてすぐに、部屋が静寂で満ちていることに気付いた。
「……ドクター?」
 不安げに名を呼びながら身を起こす。先ほどまで穏やかな音を出してくれていた方向に視線を向けるが、そこにドクターの姿はなく、代わりに机の上には何かが乗っていた。
 頭だ。机の上に頭が乗っている。
 シャレムは自分の悪夢がまだ続いているのかと不安になりながら立ち上がった。ドクターを、見つけなければ。尾をずりずりと床に這わせながらシャレムは執務室から続くドクターの寝室へと進んだ。扉はロックされていなかった。ドアを開けると、電気を付けたまま、ベッドの上で座り込んだドクターが沢山の資料を散らしたまま眠っていた。
 青白い顔がこくりこくりと船をこいでいる。そこでシャレムは先程机の上にあった「頭」はドクターが外したフェイスシールドだったと気付いた。シャレムはベッドの傍らに立ち、ドクターの様子を伺った。やはりドクターは眠っている。調べ物をしようと移動して寝入ってしまったのだろう。気持ちよさそうに寝息を立てているがこの寝息が自分の鼓膜を震わせることはない。
 ああ、恐ろしい静寂が、またやってくる。
 シャレムは葛藤した。疲れているドクターを揺り起こしたくない。だが、音が欲しい。暫しの時、シャレムは耐えた。だが、自分が誰だか分からなくなりそうになったころ、耐えられないとばかりにドクターの肩を揺さぶった。
「ドクター、ドクター? 申し訳ありません」
 んん? とドクターが唸る。その音が頼りだとでも言うように、シャレムがドクターの頭にすり寄った。
「申し訳ありません、お休みのところを」
「ああ……ごめん。寝ちゃってたか」
 他のオペレーターがこの光景を見たら目を見張るだろう。青年がまるで子供のように、ドクターに縋りついているのだ。だがこのやり取りに慣れたドクターはもたれかかってきたシャレムの頭をよしよしと撫でてやった。
「流石に三徹目になると、自分で眠気を制御出来なくてね。起こしちゃってごめん」
「いえ……」
 常人ならば、音で眠りから目覚める。だが、このフィディアの青年は違う。彼が半狂乱で執務室の扉を叩き、静寂は喧騒と紙一重なのだと悲壮感溢れる声で訴えてきた初めての夜を、ドクターは今も覚えていた。それ以来、夜半の来室を許可している。毎日ではないが、今夜のように特にロドスが静まり返っていると決まって彼は慰めを求めに来るのだ。
「今週は夜の整備がないらしいから、シャレムには静かすぎるかな」
「申し訳ありません、ドクターにはいつもご迷惑を」
「いいんだよ。どうせ私は遅くまで起きているし、一人寂しく仕事をするよりは誰かが居たほうが安心する」
 唇から漏れる優しい響きを味わうように青年はもう一度すり寄った。フィディアの尾がしゅるしゅると、ベッドを這い上がりドクターの細い腰に巻き付く。エーシェンツ特有の甘え方にすっかり慣れてしまっているドクターは、例え彼が幼いオペレーターたちと同じようなことをやっても特に疑問には思わなかった。むしろ彼の不安を感じ取り、哀れに思った。
「音がないと眠れない、ってのは難儀だね。ぬいぐるみがないと眠れないってのはよく聞くけれど」
「私にとっては、音がそれになるのでしょうね」
 ふむ、とドクターは考えた。
「じゃあ音の鳴るぬいぐるみと寝てみるとか」
「一緒に寝て下さるのですか?」
 ドクターの提案に昂ったのかシャレムの尾がきゅうと締まる。どうやら彼は音の鳴るぬいぐるみを 人間 ドクター の比喩だと勘違いしたらしい。
「おーっとと、はは、そういう意味じゃ、なかったんだが」
 一瞬あばら骨に走った鋭い痛み。ドクターは巻き付いている尾に手を添えた。
「……そうですか」
 残念そうな声と共に締め付けが緩んだ。宥めるようにぽんぽんと冷たい表皮を撫でてやる。
「それに添い寝なんてしたら余計寝落ちちゃうよ。君は音が欲しいんだろう?」
「はい。特にドクターの声が、フェイスシールドの中で反響する声が、好きなのです。穏やかで、全てを知り、慰めてくれるような響きがあります」
「初めて言われたよ。最近種類を変えたからかな。ほら、そこのサイドテーブルにも置いてあるやつ。クロージャからいくつか貰ってね。従来のフードの内側にはめこむタイプから試験的にフードと一体化したヘルメット式を試しているんだ」
 だから声が余計に響いているのかもしれない。ドクターとしては声がくぐもって聞こえていると思っていたのだが、彼にはそれが心地よかったようだ。
「私のために話し続けてくれるあなたを抱えて眠れたら、幸せでしょうね」
 どうやら先程の「ぬいぐるみ」の件を彼はまだあきらめていないらしい。
「なかなか実現は難しそうだな。でも確かに、私が相手してあげられない時の代替品はあってもいいね」
 シャレムはもはやロドスにとって大事なオペレーターの一人だ。優秀な彼が寝不足で倒れるのは困る。オペレーターたちの体調管理もドクターの仕事の一つなのだ。ドクターは暫し思案を巡らせた。
「君の端末に私の声を吹き込んで、枕元に置いてみるとか」
 シャレムは想像した。枕元から聞こえるドクターの声を聞きながら眠る。悪くなかった。叶うなら今すぐにでも、それが欲しいと思いさえした。
「悪くないように思えます」
 半分冗談で提案したことだったが、シャレムの声色が嬉しそうに弾んだのでドクターはおや、と片眉を上げた。
「私はくぐもったあなたの声が好きなのですが……果たして再現出来るのでしょうか」
 白い指がドクターの喉に触れた。ひやりとした冷たさにドクターが肩をすくめる。だが、払い落としたりはしなかった。繊細な彼には慎重に対応しなければならない。
「端末の上に何かかぶせてみる?」
 そう言いながらドクターが腕をのばし、サイドテーブルに置いてあったフェイスシールドを手に取る。
「流石にこれだと大きいかな」
 シャレムはじっとそれを眺めた。ドクターは常にこれを身に着けている。ドクターと顔を合わせるというよりもフェイスシールドと目を合わせる回数の方が多い。無機質なこれが「ドクター」のイメージを形作っているのだ。ドクターから外されてもそれは、「ドクター」としての存在感を放っていた。そして、シャレムは無性にそれに触れたくなった。
「ドクター、私にそれをくださいませんか」
 えっ、とドクターが隣のシャレムを見やる。未だ近い距離を保ったまま、彼はどこか恍惚としたようすでドクターの手の中にあるそれを眺めていた。
「お試しでいくつか支給されたやつだから、あげられるけど……本当に使う気か?」
「はい。端末にドクターのお声を入れて頂き、その端末の上にこれをかぶせます。これならドクターを煩わせず、一人で夜を過ごせるでしょう」
 確かに、名案かもしれなかった。だがドクターは彼の視線にいつもとは違う色が浮かんでいる気がして、少し躊躇した。シャレムは危うい。この選択が後々の彼を更に歪めることにならないかと危惧したのだ。 だが、彼の心のよりどころになり得るものを目の前から取り上げることは、ドクターには出来なかった。
「……試してうまくいかなかったら、またおいで」
 そう言ってドクターはフェイスシールドをシャレムに渡した。彼は恭しくそれを受け取るとまるでドクターと見つめ合うかのように持ち上げた。
 ドクターの声が入った端末と、フェイスシールドを抱えてシャレムは宿舎へと戻った。薄暗い廊下で、もし今の彼と鉢合わせたら誰もがぎくりと震えるだろう。穏やかな笑みを浮かべたシャレムがまるでドクターの首を抱えているように見えるのだから。
 自室に戻りドアを閉めたら、複数の声たちがすぐに自分を襲うだろうとシャレムは思っていた。だが、声は一向に現れなかった。まだ、端末は再生しておらず、自室には静寂が満ちているのに。
 何故……とシャレムは抱きしめていたフェイスシールドを持ち上げた。
「……あなたの出す音が私を慰めていたのでは?」
 問いかけに答えるものは勿論いない。彼が話しかけているのは虚うろだ。中にはなにもない。
「それとも、あなたという存在が私を慰めていたのでしょうか。ああ、ドクター。私には分からない」
 シャレムはフェイスシールドに自分の額を擦り付けた。尾が所在なげに空を切る。這わせる相手が居ないのだ。暫くの間シャレムは「ドクター」と見つめ合っていた。自分が何を求めていたのか、静けさの中でゆっくりと理解を深めていく。
 そうしてシャレムが結論に至ったとき、また、あの声たちが彼の脳を掻き乱し始めた。シャレムはああ……と消え入りそうな吐息を漏らした。
「私を、私で居させてくれるのはあなたなのですね。それに気付いてしまった今、仮初のあなたでは私を慰められない」
 シャレムは重そうに体を引きずりながら、部屋の隅へと移動した。壁に背をつけてずるずるとしゃがみこむ。暗闇と静けさが部屋に満ちているが、端末でドクターの声を再生しても最早無駄だということをシャレムは分かっていた。
 ドクターのフェイスシールドを持ち上げて、もう一度見つめ合う。やはり声たちは消えていかなかった。
「はは……はは、はははは……」
 引き攣るような、笑い声をたてながらシャレムは体を揺らした。
 ああ、次は本物を、この手に抱えたい。そうすればきっと眠れぬ夜は来ない。明けない夜もない。私は私で居られる。
「ドクター……」
 零した囁きは本来のシャレムのものなのか、それとも別の彼のものなのかは分からない。彼の中に灯った薄暗い感情だけが本物だった。
 彼は縋るように、目の前のフェイスシールドに頬を擦り寄せた。なんの反応も返って来ない無機物に、何度も何度も。そうして、最後にそっと、唇を押し当てると、ぽつりと言った。

「ああ、次は……次こそは本物のあなたに口付けましょう」

メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで

close
横書き 縦書き