一晩寝かせた恋がこちらになります
低い唸りのようなものが聞こえた気がして、底に沈んでいた意識がのろのろと浮上していく。ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んで来たのは古い傷がまばらに目立つ背中だった。
意外と背中、がっちりしてるんだよな、と惚けた頭で思いながら瞬きを何度か繰り返す。少しずつ視界がクリアになると、ベッドの縁に腰掛けて背中を丸めている姿を認識できた。どうやら頭を抱えて何か呟いているようだ。唸りに聞こえたのはこれだったらしい。
鉛のように重たくなった腕を緩慢に持ち上げて眼前の白い背中に触れる。ビクッと震えた後、恐る恐るといった様子でこちらを振り返るその顔は、いつもよりも白く、そして幼く見えた。
「おはよ。ジェイ」
思ったより掠れた声が出てしまって、慌てて小さく咳払いをする。だが喉そのものを痛めていたらしく、咳払いは何の効果ももたらさなかった。
「大将……」
悪人面と言われてしまうことの多い顔が、今はまるで出来たての料理を客の目の前でひっくり返してしまったような顔をしている。軋む体を叱咤して身を起こすと、上掛けがするりと体から落ちていった。あらわになった自分の肌には見える範囲だけでも噛み跡とキスマークがいくつも散っていて、思わずわぁ……と呟く。ジェイの目がまるで逃げる魚のように泳いだ。
「すいやせん……俺、やっちまったかんじすよね」
記憶力のいいジェイも泥酔状態のときのことは流石に覚えていないようだ。つまり、覚えているのは私だけということになる。
昨夜、私とジェイはキッチンから拝借した酒とジェイの作ったつまみでささやかな宴会をした。といっても私は酒に弱いので控えめな量を心がけ、ジェイには無礼講と称してコップがあく度についでやった。
ウルサス人らしく酒に強いジェイが淡々と酒を飲み干していくのが気持ちよくて、私は飲め飲めとばかりにどんどん酒を注ぎ…気がついた時には大きな瓶が空になっていた。普段からすわりがちのジェイの目が更にすわってしまったのを見て、私は慌てて水を取りに行こうとしたのだが、腕を掴まれてそれは叶わなかった。
そしてベッドに引き倒され酔って赤くなった顔が近づいてきたが、私は「ストップ」をかけずただ、眺めていた。彼に片思いをこじらせていた私からしたら、正直「今しかない」という爛れた感情が主で、あとはちょっとの罪悪感くらいしかなかったのだ。
酔った勢いでことを成すなんて! と叫ぶ私と、明日をも知れぬ身なのだからチャンスを逃すな! と叫ぶ私が脳内で殴り合ったが、結果は見ての通り。
熱に浮かされたように大将、大将と呼び続ける彼が可愛くて私はそれに全て返事をしてやりながら、くすんだ白の耳を撫でてやった。
そんな彼の耳はいまやすっかり下向きに傾いてしまっていた。フェリーンやペッローに比べるとウルサスのそれは感情があまりのらない。だがこの角度は明らかに気を落としていることを表していた。朝起きたら裸の上司と―しかも男だ―ベッドで隣合って目が覚めるなど、相当ショックだったろう。
「……後悔してる?」
自分でも野暮な質問だなとは思ったが、なんとなく聞いてしまった。
「そりゃまぁ、はい……」
ジェイの答えに特にショックはなかった。元々私の片思いだし、それに私は幸運なことに昨日の一夜を一生の思い出に出来るタイプだ。
ありがとうジェイ。そしてごめん。君は私の我儘の被害者だ。なんか、今度ちゃんとお詫びするから。お酒以外で。
「えーっと、まずはごめんね。私がお酒飲ませすぎたのが良くなかった。そもそも上司からの酒なんて断りづらいのに」
「いや、大将は悪くないんす。俺が浮かれちまって量の加減を見誤ったんで」
ふるふると首を横に振るジェイから私への嫌悪は感じなかった。ひとまずその事にほっと胸を撫で下ろす。あとはなるべく、簡潔に、彼が気に病まないように終わらせてあげねば。
「私たちもいい大人だし、まぁほら、サクッと無かったことにしようよ。獠獣に噛まれたとでも思ってくれたら……」
「噛んだのは俺ですがね」
私の言葉を遮りながら、ジェイが職人らしいかさついた指でむき出しの私の肩に触れた。くっきりとついた噛み跡に行き着くとゆっくりと赤い線をなぞる。ただの確認というにはあまりにも色めいた動作に、私は身じろいだ。さっきまで力のなかった彼の瞳が今は強い光を湛えていて、そのあまりの熱っぽさに今度は私の目が泳ぐ。
「ジ、ジェイ?」
「はい?」
「な、んで触るの?」
「大将、俺は料理人です。自分の仕上げたもんの記憶がないってのは、料理人としてどうかと思うんすよね」
そう言うと私の肩を前にして、くわっとジェイの口が大きく開いた。
「ぅひゃっ」
チラと見えた赤い舌に一瞬気を取られた私は、彼を止めることが出来なかった。かぷり、と肩に食いつかれて間抜けな声をあげた私に丸い耳が満足そうに少し揺れる。上書きした噛み跡をぺろりと舐めるとジェイが顔をあげて言った。
「無かったことにする、なんてひどいこと言わんでください」
「え、でもさっき後悔してるって」
「折角大将と抱き合えたのに酔ってて全然覚えてないとか、そりゃ後悔しやすよ」
後悔ってそっち!? と心の中で叫びながら私は目を瞬かせた。すり、と頭を私の胸に擦り付けながらジェイが続ける。
「大将は俺のこと嫌いですかい? 本当に無かったことにしたいなら無理にとは言いやせんが……」
私は予想していなかった展開に空を仰いだ。こんな幸せなことがあっていいんだろうか。じっと返事を待つ男に私は感無量のあまり小さくなってしまった声で「嫌いじゃない……」と返した。もっと他に言い方があったろうと思うが、本番に弱い私にはこれが精一杯だった。だが彼の顔を見る限りそんなシンプルな返事でも充分だったようだ。
「大将、俺素面のときの記憶力には自信あるんで、リベンジさせてもらいやす」
注文を受けた料理人のような顔で笑う彼に、私は柔らかいまな板の上で頷くことしか出来なかった。
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