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ドクターは目の前で白い湯気をもうもうとたてているそれを見つめた。ローストされた獣肉に香り高いヴィクトリア風のトリュフソースがかかった料理。湯気の向こう側で自分を見つめる男が、祝いの品として渡してきたものだ。
鉄板の上に乗った肉は、たった今しがた焼きあがったような見た目をしているが、実は賞味期限を数時間後に控えているシロモノである。賞賛すべきはロドスの食料保管技術か、はたまたこれを調理し直したマッターホルンか。いや、おそらく両方だろう。どちらが欠けてもきっとこの湯気と匂いは復活しなかった。
ただの肉料理ならドクターも気を遣わず、早々に手を付けただろうし、何なら他のオペレーターたちにも振る舞ったかもしれない。だが、鉄板の上で透き通った肉汁を滴らせているこの獣肉が、男の故郷で神への献上物として用いられてきた品であると知らされては、そうもいかなかった。意味深な内容が記されたメモ書きと共に料理を受け取ったドクターが、無言で執務室の冷蔵庫に突っ込んだのも仕方のないことだ。
一つ、また一つと祝いの品を消費するたびにそれは存在感を増していく。そうしてドクターが冷蔵庫から放たれるプレッシャーにいよいよ耐えられなくなったころ、たまたま使い走りにやってきていたクーリエがふと「あの
ドクターが歯切れの悪い相槌を打ちつつ、出来ればこのことは内密に、と伝えると彼はまた苦笑を浮かべた。その笑みが意味するのは「お約束できません」であることをドクターは知っていたが、それでも念の為釘を刺したくなるほど後ろめたかったのだ。用事を終えた彼が執務室を辞するとき、風のように早く端末を取り出しているのを見て、ドクターはやはり無意味な釘打ちだったと空を仰いだ。
そして、その結果が今の状況である。クーリエは忠実な部下としてきちんと仕事を全うしたのだ。この場合、彼の忠誠は勿論ドクターではなく彼の主人であるエンシオディスに向けられている。
『ドクターはまだ旦那様からの品を召し上がっていないようです』
きっとこのような文面でもって報告したのだろう。執務室に入ってきてすぐ「まだ食べていなかったのか」をぶつけられて、ドクターは彼の来訪を予期して昼と夜を抜いた自分を誉めてやった。
エンシオディスから話がいったのだろうマッターホルンが冷蔵庫の料理を回収し、巧みな技術で温め直されるとそれは執務室まで運ばれた。そして今二人で湯気を挟んで向かい合っている。
「どうした。冷めてしまうぞ」
「や、流石に熱いかなって」
「フェリーンではあるまいし、それくらい問題ないだろう。風の噂でお前は口の中に湯を注いで調理が出来ると聞いたが」
ハハ、とドクターは乾いた笑いを漏らした。その真偽を明らかにするのはまた今度にしておこう。促しても未だにフォークで肉の端を突くだけのドクターにエンシオディスはゆったりと長い脚を組んだ。まるで尋問官のような視線をドクターに向ける。
「肉料理が嫌いなわけではないな?」
ドクターは素直に頷いた。
「ああ。普通にカツの卵とじとか食べるし」
「知っている」
何で知っているんだよ、と言いかけてドクターはすぐに思い直した。大方、マッターホルンから聞き出したのだろう。彼にその料理を頼んだことはなかったがキッチン担当同士、横のつながりは多かれ少なかれあるはずだ。自分の注文料理が筒抜けでもおかしくはない。
「ではなぜ、今までこれに手を付けなかった」
素直に話すべきか、ドクターは迷った。この料理は、この獣肉は彼からの誠意のしるしなのにそれを「保留」にしたことは変わりない。じっ、と強い視線が湯気を断ち切るように注がれる。ドクターはせめて自分も誠意をもって素直に答えることにした。
「メモにさ、この肉が特別なものだって書いてあったから。食べるの緊張したんだ」
エンシオディスは相槌を打たずに、そのまま言葉の続きを待った。
「神様に捧げるようなものを、捧げられたら誰だってビビる。だからつい、後回しにしてた」
「……イェラグであのように立ち回った肝の太いお前なら、
「買いかぶりすぎだ。それに……君に関しては特に慎重に対応せざるを得ないし」
「ほう?」
薄くなり始めた湯気が彼の吐息でふわりと揺らぐ。いい加減、食べ始めないと折角調理し直してくれたマッターホルンに申し訳ない。ドクターは置きっぱなしにしていたナイフをようやく手に取った。右手にナイフ、左手にフォーク。肉料理を食べる準備は万全だ。だが、最初の一口を切り出す勇気が未だに出ない。
「この肉を食べる意味を考えると、どうしても手が止まるんだよ」
「私の誠意を受け取りたくないと?」
「なんだか、誠意の他にも色々詰まってる気がしてならないからね。君の場合」
打算、布石、切り札、ドクターが想像していたのはそのあたりのことだった。それらが詰まったこの肉を一度食せば、何か、彼の思惑に嵌まりそうで怖かったのだ。
再び肉を前に固まったドクターにエンシオディスは、ふっ、と笑った。ドクターの言葉を否定するでも肯定するでもなく、彼は笑みを浮かべたままドクターの手からするりとナイフとフォークを奪う。あ、とドクターが声を上げた瞬間、二人の間に鎮座していた肉の塊に刃がつきたてられた。フォークを添えながら、品よく、だが豪快に肉が切られていく。厚さの割にとてもスムーズにナイフが通っていくところを見るに、やはり肉質がよいのだろう。さすが神に捧げられる逸品だ。
感心しているドクターの前に、フォークに刺さった肉が差し出された。エンシオディスはドクターをじっと見つめている。まるで、その視線がもたらす熱に炙られたように肉から脂がぽたり、と鉄板の上に落ちた。
「最初の一口を食してしまえば、後は同じだ。そうだろう?」
ああ、神への供物として使われる獣肉を、イェラグの領主に切り分けさせてしまった。それだけではない。状況から察するに手ずから食べさせようとしている。これならさっさと、自分で切って食べてしまったほうがよかった。後悔するがもう遅い。ここまでお膳立てされて「自分で食べるからフォークだけ渡してくれ」と言えるほどドクターの肝は太くないのだ。
恐る恐る口を開ける。エンシオディスの目がすっ、と細くなった気がした。開けた口を閉じたくなる。だがその気持ちをぐっとこらえてドクターは目の前の肉を頬張った。噛んだ瞬間、じゅわっと肉汁が咥内に溢れる。初めて食べる獣肉だったが、特にクセもなく、上質な脂のうまみと肉のやわらかさを感じ、思わず「んむっ」と声が出た。
咀嚼のたびトリュフソースの香りが鼻から抜けて、塩味と肉の脂がいい具合に絡まる。厚みのある大きな一切れだったが、あっという間に噛み終わり、すっと喉奥に落ちていった。
「
確かに。今まで食べたことないほど美味しい肉料理だった。素直にこくんと頷く。ここまで来て意地を張るのも馬鹿らしい。
「喉を通った後も存在感がある。余韻がすごいな」
「そうでなくては困る。私の気持ちを込めたのだから」
そう言いながらエンシオディスが二切れ目をフォークに刺す。意味深な言葉を添えられて再び差し出された肉をドクターは見つめた。一口目を食べれば後は同じだって? とんでもない。二口目は、彼が言わんことを理解した上で、この肉に食らいつかなければならないのだ。
微かにドクターの唇が震えたのをエンシオディスはその双眼でしっかりと見ていた。そしてまるで試すようにフォークを揺らす。
「残さず食べてくれるな? ドクター?」
ぽたりと、またひとしずく、肉汁が鉄板の上に落ちた。
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